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ロンボック島の大きさはバリ島よりもやや小さい(面積約4700km2)。島の中北部には、聖山と崇められるリンジャニ山(標高3726m)がそびえ、島の地形はこの山のある北部山岳地帯と南部の丘陵地帯、そして中央の平野部に三分されている。島民のおおくは、この平野部に集中している。
ロンボック島の住民の大半をしめるのは、約260万人におよぶササック Sasak 人で、その大半はイスラム教の信者とされている。しかし、このなかにはイスラムの戒律に忠実なワクトゥ・リマ Waktu Lima (文字どおりには五つの時の意味で、イスラムの五行、一日五回の礼拝を守ることからこの名がある)と、土着のアニミズム的な信仰を強くのこしたワクトゥ・テル Wetu Teru (三つの時)の区別があることはふるくから指摘されてきた。
イスラム教がロンボック島に伝えられたのは、16世紀初頭であるといわれる。『ロンボック年代記』 Babad Lombok によると、東ジャワのグレシクの王スナン・ギリ Sunan Giri (1442- ジャワ島におけるイスラムの布教に貢献した聖者として有名)がジャワ以外の島じまに伝導者を派遣したとき、ギリの王子のスナン・プラペン Sunan Prapen がスンバワ島、バリ島とともにロンボック島にイスラム教を伝えたという。
ロンボック島には、イスラム教の伝来からそう遠くない16世紀から17世紀ころに創建されたとみられるモスクが存在している。このようなモスクがあるのは、西ロンボック県のバヤン Bayan 、中部ロンボック県のプジュット Pujut とランビタン Rembitan の三ヶ所で、いずれも二段になった宝形屋根をのせ、堂内に立てた4本の主柱でこの屋根をささえている。屋根には、バヤンの竹、プジュットとランビタンのチガヤといった、住居と同じ材料がつかわれている。これらの土着のモスクが現代のモスクとあきらかにちがうのは、礼拝のために堂内に設けられる壁龕のミフラブが正確にメッカの方角をさしていないことである。
ロンボック島にこのような様式のモスクがみられること自体、イスラム教がジャワから伝えられたという伝承を裏づけるものだろう。
インドネシアにイスラム教が伝えられた当初、おそらく伝導者のなかにはイスラム建築の技術者が含まれていなかったために、土着の建築様式と融合したモスクが各地に建設されることになった。しかし、ロンボック島ではササックの様式をもちいることはなく、すでにジャワ化されたモスクを受け入れたのである。屋根の頂が一点にあつまる宝形屋根のことをジャワではタジュグとよび、モスクやマカム(墓廟)などの宗教施設に利用されている。ジャワ島のデマックやクドゥスに残る16世紀の大モスクをみれば、その屋根が三段になった宝形屋根を載せていることがわかる。そればかりか、中央に霊的な4本の柱ソコ・グルを立てるのも、ジャワ建築の伝統にしたがう手法であった。
ロンボック島に残るこうした様式のモスクは、ササック人のなかでもワクトゥ・テルの人びとが利用していた。偶像を禁ずるイスラム教の戒律にもかかわらず、モスクの梁に鳥の彫刻を飾ったり、バヤンのモスクではナーガ(竜)の像が安置されている。またそのためにワクトゥ・リマがひろまるにつれて取り壊されてしまったモスクもある。
ジャワ島との関係は、イスラム教の招来をさかのぼる14、15世紀、ジャワで栄えたマジャパヒト王国の時代からつづいていたらしく、マジャパヒト時代の著名な叙事詩である『ナーガラ・クルターガマ』のなかには、ロンボック島がその支配下にあったことが記録されている。『ナーガラ・クルターガマ』はマジャパヒト王国の宮廷詩人プラパンチャの作とされ、王国内のさまざまな事象を記録した叙事詩として、のちにジャワを支配した諸王国の年代記の先駆けをなすものである。これらの叙事詩はロンタルヤシの葉に線刻され、『ナーガラ・クルターガマ』を記したロンタル文書も、1894年にロンボック島の寺院から発見されたのである。
また、ロンボック島の平野部には、ササック以外にもバリ島をはじめ、東のスンバワ島や北のスラウェシ島マカッサルからの植民がおこなわれていた。なかでもバリ島との関係は、バリ東部のカランガセム王国の支配下にはいった18世紀中葉から、ことにロンボック島の西部を中心としてササック人とバリ人のあいだには、水利や土地の問題についての協力関係がみられるようになっていた。ロンボック島の西部の古都チャクラヌガラ Cakranegara には、ヒンドゥー的観念にもとづくグリッド状の都市が計画され、そこでバリ人はバリ本土とまったく同一の住宅や寺院を構えて生活していた。
このように、ロンボック島の文化をかんがえるうえで、バリとジャワ、ヒンドゥーとイスラムとは無視することのできない二大源泉であった。ササックはこのふたつの文化の影響を全身でうけとめながら、固有の建築的伝統を培ってきたのである。
スンバルン Sembalun
リンジャニ Rinjani 山(標高3726m)の山麓、標高1200メートルの土地にスンバルンは開けている。冷涼な気候と、ゆたかな水、緑をたたえるスンバルンの景観は、東部ロンボック特有の埃っぽいサバンナを延々と通過してきたあとでは、まるで桃源郷に達したかの錯覚をおぼえる。しかし、外界から隔絶していたこの土地にも、トラックが出入りするようになり、数年前(1980年代初頭)には電気もひかれた。土地の買い占めが起こっているという噂もささやかれるようになった。観光化の波はバリ島をこえて、この島のあちこちにも確実に押しよせているのである。
スンバルンの起源について、ある伝承は、かつてこの土地がパマタン Pamatan という名の王国であったことを伝えている。この王国はリンジャニ山の噴火によって壊滅し、難を逃れた住民はロンボック島各地に散って、それぞれの土地で王国を建設した。その後、7家族の住民がスンバルンに舞い戻り、ジャワのマジャパヒト王国の王族の手をかりて、そこにふたたび村を建設した。これが現在のスンバルン・ラワン Sembalun Lawan 村であり、このマジャパヒトの王族は村はずれに埋葬された。15世紀のことだったという。
穀倉
スンバルンの村は、住居と穀倉が向かい合い、棟をリンジャニ山に向けて平行にならぶ整然とした配置をとっている。本来こうした住居と穀倉は同一の所有者が建設してきたのだとおもわれるが、スンバルンでは相続を繰り返した結果だろうか、向かいあう建物同士の所有関係は錯綜している。住民はこれを、万一火災がおきた場合に財産の一部を守るための手段だと説明している。裕福な者のなかには、穀倉を複数棟所有する者もいた。
一般に東南アジアでは、穀倉はただコメを収納する空間であるばかりでなく、その床下をさまざまな用途に利用する。スンバルンの場合には、長男が結婚すると、新居を構えるまでのあいだ、老夫婦や他の兄弟たちは穀倉の床下に仮住まいする習わしがあった。
スンバルンには、寄棟の屋根を載せたゲレン Geleng (ゲレアン Geleang )という穀倉形式しかなく、屋根の形だけをみると住居と穀倉の区別がつかない。それに対し、中央平野部にはアラン Alang とよばれる釣鐘形の屋根を載せた穀倉形式があり、ササックの穀倉としては、むしろこちらのほうがよく知られている。アランはスラウェシ島南部やスンバワ島西部で、やはり穀倉をさす言葉であり、言葉のうえからは、マカッサルやスンバワの支配のおよんだ東部ロンボックの形式だったとかんがえられる。しかし屋根の構造は、曲面にまげた垂木を鳥篭のように編んでいるだけの単純きわまりないもので、バリ島の穀倉を形だけ模倣してつくったようである。
住居バレ Bale
住居のことをバレ Bale 、ないし農家ならバレ・タニ Bale Tani という。バレの形式は、北部山地のバヤン Bayan 地方をのぞいてだいたい一定している。山の斜面か、平地の場合には土壇をたかく盛りあげて、そのうえに建設する。屋根に小屋組がなく、棟木の高さがさほど高くあげられているわけではないので、こうでもしなければ、建物の前面で屋根の軒先が床に届いてしまうのである。
ダラム・バレ(バレの内部) Dalam Bale には窓がなく、唯一の入口を閉ざしてしまうと昼間でもまっ暗な空間である。この土間にパンダヌスの葉を編んだマットを敷いて、夫婦、老人、子どもと未婚の女がそこで生活する。調理のためのカマド jangkih が入口をはいって右側の壁ぎわにならび、その傍らには水瓶が置かれている。屋根と外壁の境の高さに、壁面にそって棚がしつらえられ、無数の壷や丸めたパンダヌスのマット、食器入れの篭、サロン(腰巻き)のはいったロンタルヤシ製の化粧箱などがこの上に保管されている。
住居の空間分割
バレ Bale の前面にはスサンコ Sesangkok とよばれるテラスが付属している。閉鎖的、私的なダラム・バレに対して、スサンコは住居の開放的、公的部分を代表している。ダラム・バレが女の空間であるのに対して、男の空間といういいかたをされるときもある。それは未婚の男がふつうスサンコで寝起きするからである。マレー風の高床家屋にあるスランビ Serambi とよく似た位置づけにある。
スサンコにはダラム・バレにのぼるための土の階段 undakundak (奇数段がよいとされている)があり、それを境に「右のスサンコ」と「左のスサンコ」にわかれている。階段の位置は中央より左寄りに設けるのがよいとされていて、「右のスサンコ」「左のスサンコ」を「大きなスサンコ」「小さなスサンコ」ということもある。男であれ女であれ、日常的な作業はスサンコでおこなうことがおおく、一般に「右のスサンコ」は男たちがつどい、就寝をする部分であり、機織りなどの作業に女たちは「左のスサンコ」をもちいている。また「右のスサンコ」は接客空間とされるのに対して、「左のスサンコ」で接待をうけることは、歓迎されざる客のしるしとみなされていた。
ところで、「右」「左」が実際に住居のどちら側をさすかということは、ササックの人びとにとっては決まりきったことで、いつも建物の奥を背に、正面を向いたときの位置をもとにしている。だからカマドのある側は、じつはダラム・バレの「左」、つまり象徴的にいうと「女」の側になり、サンコの空間分割は屋内にも連続しているのである。
南部のランビタン Rembitan 地方では、サンコを「右」「左」で区別するかわりに、「海のサンコ」 Sesangkok Lauk 「陸のサンコ」 Sesangkok Daye という表現をつかう。この「海」「陸」をしめす「ラウ」「ダヤ」という言葉は、実際には東西に対立した方位軸をしめすときに、ササックがつかう方位名称である。たとえば、島の南部のランビタンでは「ラウ」(海)が南の方向にあたるが、島の北部よりのスンバルンやバヤンでは、おなじ呼称がまったく反対の北を意味することになる。
ブルガ Berugak
ササックの古典的な文化要素を豊富に残すバヤン Bayan 地方では、各住居にブルガ Berugak が付設し、接客空間や作業空間としてのスサンコの機能の大半はブルガに移されている。ブルガは地床式のバレ Bale に対して、四本ないし六本の柱でささえられた壁のない高床の建物である。スサンコが象徴的に男の空間とみなされているように、ブルガも女のバレに対するときは男の建物と位置づけられている。結婚前の男たちはブルガで寝起きするのである。バヤンの文化圏をはなれたスンバルンやランビタンでは、ブルガは集落全体で数棟しかないのがふつうで、集会場や儀礼場に使われることがブルガのもっとも重要な役割りになる。とくに葬式の際には、遺骸はいったんブルガに寝かされ、水浴と儀礼をすませてから埋葬された。
バヤンでは、建物の屋根はすべて棟をリンジャニ山の方向(南)に向けている。ブルガもこれにあわせて南北に長辺を向けることになる。そこでバヤンの葬式では、儀礼をおこなう者がブルガの「陸」の側(南)に位置をしめ、遺骸は「海」の側(北)で儀式をすませると、頭を「海」の方向に向け直して墓地に運ばれた。
土間で生活するササックのもとで、なぜブルガのような高床建築が維持されてきたのかということは、なかなかおもしろい話題である。
ジャワ島に目を転じてみると、ブルガに類似する高床建築は、13世紀から14世紀にかけて東ジャワで建造されたチャンディ寺院の浮彫りにもさかんに描かれている。お隣りバリ島のバレ・バンジャール Bale Banjar (集落の集会場)もやはり壁のない高床の建物で、ブルガと似たような出自をもつとかんがえられる。
さらに視野をひろげるなら、Balai、Baileo などの名でよばれる集落の共同家屋がその原型にあるのかもしれない。中央スラウェシの霊屋 Lobo (
Bada
)、ボルネオの頭蓋の家 Baruk (
Bidayuh)やニアス島の集会場 Bale (
Nias
)、ベトナム中央高地の男性集会場 ron (
Bana)などは、呼称がちがってもほぼおなじような役割を果たす建物である。この地域の集落には、閉じた性格の家屋に対して、外部に開かれた一種の公共建築がある。それは、儀式や集会の場であり、同時に、未婚男子のたまり場になり、来客の宿泊所も兼ねていた。集落内にこうした公共建築がないばあいには、穀倉の床下がそれにかわることも多い(
Toba Batak、
Sa'dan Toraja)。もともと穀倉自体が共同建築だったのではないだろうか(
Atoni)。また、各家がブルガのような建物をもつ例(
Kisar
)もある。
もっとも、ササックのもとでは、バヤン地方をのぞいて、一般的な村落生活のなかでブルガの価値はさほど大きなものではなかった。なぜなら、住居にはすでにスサンコという類似の空間が発達していたからである。逆に、各戸にブルガのあるバヤンの住居ではこのスサンコの領域があまり明確ではないのである。
住居の中心 Bale Dalam
ダラム・バレ Dalam Bale の右半分を壁で仕切って小空間を設けることがある。その際にはこの空間をバレ・ダラム Bale Dalam (内部の家)とよび、屋内のそれ以外の部分をバレ・ルアール Bale Luar (外部の家)とよんでいる。バレ・ダラムは住居のなかでもっとも秘められた位置にあるもっとも神聖な空間である。コメを入れた壷が置かれ、儀礼につかう道具などの貴重品をここにしまう。
むかしスンバルンにはミダンという一種の夜這いの風習があった。結婚前の男が夜ごとに女の家をおとずれて、女と語りあかすのである。このときに、未婚女子の寝床が設けられているのがバレ・ダラムのなかだった。外壁の一角にはちょうど話ができるくらいの小さな穴が開いていて、男は家の外に立ったまま女の話し相手をつとめねばならなかった。女は室内にいるからよいが、いくら熱帯とはいえ標高1200メートルの土地では夜の寒さが身にしみる。それでも、男たちは意にかなう女の心を射止めることができるまで、適齢期の女のいる家をもとめて、毎晩のようにミダンを繰り返したという。いまではミダンの風習も玄関からおとずれる紳士的なものに変わり、バレ・ダラムに寝床をもつ家はなくなった。
バレ・ダラムはもともとコメを収納する空間であったが、こうした風習やバレ・ダラムで出産をする地方があったりするのをみると、家の豊穣や繁栄にかかわる活動がこの小空間を介しておこなわれていたらしい。
住居にバレ・ダラムのないバヤン地方では、そのかわりに屋内の中央に高さ一メートル程度の高床を築いて、イナン・バレ Inan Bale という名の神聖な空間を設けている。イナンは母とか中心をあらわし、イナン・バレは文字どおり住居の中心を意味していた。これは四本あるいは六本の柱でささえられた高床穀倉風の構造で、この空間に米菓の供物をそなえるのは、家族なかの女性の役割だった。儀礼のときには、神官がひとりでこの空間にこもり、神に祈りを捧げるのである。
イナン・バレのある住居は、ロンボック島でもバヤン地方にしか残されていない。ところが、ロンボック島以外の地域にも注意すると、地床の住居のなかにこうした高床の儀礼空間をそなえた例は、ほかにも知られている。
ルソン島のボントック、それに小スンダ列島をはるか東にたどったキサール島やレティ島の住居は、生活空間として土間や低い寝台を利用し、その上に似たような高床構造を築いている。とくにキサール Kisar 島では、住居のほかにかならず男のための建物として、壁のない高床建築のラクホーン Lakhoun が付属しているから、バレとブルガを一対にするバヤンの家屋構成とも基本的に一致している。
ロンボック島各地の報告を総合すると、ササックの住居は次のような規則にしたがって空間を構成しているらしい。




















































フィールドノートThe Sasak live mainly on the island of Lombok, Indonesia, numbering around 2.6 million (85% of Lombok's population). They are related to the Balinese in language and race, although the Sasak are predominantly Muslim while the Balinese are Hindu.
Wikipedia
Sasak
2,100,000 (1989). Lombok Island. Dialects: Kuto-Kute (North Sasak), Ngeto-Ngete (Northeast Sasak), Meno-Mene (Central Sasak), Ngeno-Ngene (Central East Sasak, Central West Sasak), Mriak-Mriku (Central South Sasak). Complex dialect network. Some 'dialects' have difficult intelligibility with each other. Related to Sumbawa and Balinese.
Ethnologue
Melayu Online : Lombok Kingdom
Melayu Online : Arsitektur dan Tata Ruang
Melayu Online : Sasak Tribe Traditional House
Arsitektur dan Tata Ruang Rumah Tradisional Sasak Lombok
Tinjauan Filosofi : Rumah Adat Sasak

































[Intsia spp.]
Tropical Building Systems


Local Name: suren, surian, surian amba (Sumatera).


