ササック (ロンボック島) | Sasak (Lombok)

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ロンボック島の大きさはバリ島よりもやや小さい(面積約4700km2)。島の中北部には、聖山と崇められるリンジャニ山(標高3726m)がそびえ、島の地形はこの山のある北部山岳地帯と南部の丘陵地帯、そして中央の平野部に三分されている。島民のおおくは、この平野部に集中している。
 ロンボック島の住民の大半をしめるのは、約260万人におよぶササック Sasak 人で、その大半はイスラム教の信者とされている。しかし、このなかにはイスラムの戒律に忠実なワクトゥ・リマ Waktu Lima (文字どおりには五つの時の意味で、イスラムの五行、一日五回の礼拝を守ることからこの名がある)と、土着のアニミズム的な信仰を強くのこしたワクトゥ・テル Wetu Teru (三つの時)の区別があることはふるくから指摘されてきた。
 イスラム教がロンボック島に伝えられたのは、16世紀初頭であるといわれる。『ロンボック年代記』 Babad Lombok によると、東ジャワのグレシクの王スナン・ギリ Sunan Giri (1442- ジャワ島におけるイスラムの布教に貢献した聖者として有名)がジャワ以外の島じまに伝導者を派遣したとき、ギリの王子のスナン・プラペン Sunan Prapen がスンバワ島、バリ島とともにロンボック島にイスラム教を伝えたという。
 ロンボック島には、イスラム教の伝来からそう遠くない16世紀から17世紀ころに創建されたとみられるモスクが存在している。このようなモスクがあるのは、西ロンボック県のバヤン Bayan 、中部ロンボック県のプジュット Pujut とランビタン Rembitan の三ヶ所で、いずれも二段になった宝形屋根をのせ、堂内に立てた4本の主柱でこの屋根をささえている。屋根には、バヤンの竹、プジュットとランビタンのチガヤといった、住居と同じ材料がつかわれている。これらの土着のモスクが現代のモスクとあきらかにちがうのは、礼拝のために堂内に設けられる壁龕のミフラブが正確にメッカの方角をさしていないことである。
 ロンボック島にこのような様式のモスクがみられること自体、イスラム教がジャワから伝えられたという伝承を裏づけるものだろう。
 インドネシアにイスラム教が伝えられた当初、おそらく伝導者のなかにはイスラム建築の技術者が含まれていなかったために、土着の建築様式と融合したモスクが各地に建設されることになった。しかし、ロンボック島ではササックの様式をもちいることはなく、すでにジャワ化されたモスクを受け入れたのである。屋根の頂が一点にあつまる宝形屋根のことをジャワではタジュグとよび、モスクやマカム(墓廟)などの宗教施設に利用されている。ジャワ島のデマックやクドゥスに残る16世紀の大モスクをみれば、その屋根が三段になった宝形屋根を載せていることがわかる。そればかりか、中央に霊的な4本の柱ソコ・グルを立てるのも、ジャワ建築の伝統にしたがう手法であった。
 ロンボック島に残るこうした様式のモスクは、ササック人のなかでもワクトゥ・テルの人びとが利用していた。偶像を禁ずるイスラム教の戒律にもかかわらず、モスクの梁に鳥の彫刻を飾ったり、バヤンのモスクではナーガ(竜)の像が安置されている。またそのためにワクトゥ・リマがひろまるにつれて取り壊されてしまったモスクもある。

 ジャワ島との関係は、イスラム教の招来をさかのぼる14、15世紀、ジャワで栄えたマジャパヒト王国の時代からつづいていたらしく、マジャパヒト時代の著名な叙事詩である『ナーガラ・クルターガマ』のなかには、ロンボック島がその支配下にあったことが記録されている。『ナーガラ・クルターガマ』はマジャパヒト王国の宮廷詩人プラパンチャの作とされ、王国内のさまざまな事象を記録した叙事詩として、のちにジャワを支配した諸王国の年代記の先駆けをなすものである。これらの叙事詩はロンタルヤシの葉に線刻され、『ナーガラ・クルターガマ』を記したロンタル文書も、1894年にロンボック島の寺院から発見されたのである。

 また、ロンボック島の平野部には、ササック以外にもバリ島をはじめ、東のスンバワ島や北のスラウェシ島マカッサルからの植民がおこなわれていた。なかでもバリ島との関係は、バリ東部のカランガセム王国の支配下にはいった18世紀中葉から、ことにロンボック島の西部を中心としてササック人とバリ人のあいだには、水利や土地の問題についての協力関係がみられるようになっていた。ロンボック島の西部の古都チャクラヌガラ Cakranegara には、ヒンドゥー的観念にもとづくグリッド状の都市が計画され、そこでバリ人はバリ本土とまったく同一の住宅や寺院を構えて生活していた。
 このように、ロンボック島の文化をかんがえるうえで、バリとジャワ、ヒンドゥーとイスラムとは無視することのできない二大源泉であった。ササックはこのふたつの文化の影響を全身でうけとめながら、固有の建築的伝統を培ってきたのである。

ササックの建築

スンバルン Sembalun  リンジャニ Rinjani 山(標高3726m)の山麓、標高1200メートルの土地にスンバルンは開けている。冷涼な気候と、ゆたかな水、緑をたたえるスンバルンの景観は、東部ロンボック特有の埃っぽいサバンナを延々と通過してきたあとでは、まるで桃源郷に達したかの錯覚をおぼえる。しかし、外界から隔絶していたこの土地にも、トラックが出入りするようになり、数年前(1980年代初頭)には電気もひかれた。土地の買い占めが起こっているという噂もささやかれるようになった。観光化の波はバリ島をこえて、この島のあちこちにも確実に押しよせているのである。
 スンバルンの起源について、ある伝承は、かつてこの土地がパマタン Pamatan という名の王国であったことを伝えている。この王国はリンジャニ山の噴火によって壊滅し、難を逃れた住民はロンボック島各地に散って、それぞれの土地で王国を建設した。その後、7家族の住民がスンバルンに舞い戻り、ジャワのマジャパヒト王国の王族の手をかりて、そこにふたたび村を建設した。これが現在のスンバルン・ラワン Sembalun Lawan 村であり、このマジャパヒトの王族は村はずれに埋葬された。15世紀のことだったという。

穀倉  スンバルンの村は、住居と穀倉が向かい合い、棟をリンジャニ山に向けて平行にならぶ整然とした配置をとっている。本来こうした住居と穀倉は同一の所有者が建設してきたのだとおもわれるが、スンバルンでは相続を繰り返した結果だろうか、向かいあう建物同士の所有関係は錯綜している。住民はこれを、万一火災がおきた場合に財産の一部を守るための手段だと説明している。裕福な者のなかには、穀倉を複数棟所有する者もいた。
 一般に東南アジアでは、穀倉はただコメを収納する空間であるばかりでなく、その床下をさまざまな用途に利用する。スンバルンの場合には、長男が結婚すると、新居を構えるまでのあいだ、老夫婦や他の兄弟たちは穀倉の床下に仮住まいする習わしがあった。
 スンバルンには、寄棟の屋根を載せたゲレン Geleng (ゲレアン Geleang )という穀倉形式しかなく、屋根の形だけをみると住居と穀倉の区別がつかない。それに対し、中央平野部にはアラン Alang とよばれる釣鐘形の屋根を載せた穀倉形式があり、ササックの穀倉としては、むしろこちらのほうがよく知られている。アランはスラウェシ島南部やスンバワ島西部で、やはり穀倉をさす言葉であり、言葉のうえからは、マカッサルやスンバワの支配のおよんだ東部ロンボックの形式だったとかんがえられる。しかし屋根の構造は、曲面にまげた垂木を鳥篭のように編んでいるだけの単純きわまりないもので、バリ島の穀倉を形だけ模倣してつくったようである。

住居バレ Bale  住居のことをバレ Bale 、ないし農家ならバレ・タニ Bale Tani という。バレの形式は、北部山地のバヤン Bayan 地方をのぞいてだいたい一定している。山の斜面か、平地の場合には土壇をたかく盛りあげて、そのうえに建設する。屋根に小屋組がなく、棟木の高さがさほど高くあげられているわけではないので、こうでもしなければ、建物の前面で屋根の軒先が床に届いてしまうのである。
 ダラム・バレ(バレの内部) Dalam Bale には窓がなく、唯一の入口を閉ざしてしまうと昼間でもまっ暗な空間である。この土間にパンダヌスの葉を編んだマットを敷いて、夫婦、老人、子どもと未婚の女がそこで生活する。調理のためのカマド jangkih が入口をはいって右側の壁ぎわにならび、その傍らには水瓶が置かれている。屋根と外壁の境の高さに、壁面にそって棚がしつらえられ、無数の壷や丸めたパンダヌスのマット、食器入れの篭、サロン(腰巻き)のはいったロンタルヤシ製の化粧箱などがこの上に保管されている。

住居の空間分割  バレ Bale の前面にはスサンコ Sesangkok とよばれるテラスが付属している。閉鎖的、私的なダラム・バレに対して、スサンコは住居の開放的、公的部分を代表している。ダラム・バレが女の空間であるのに対して、男の空間といういいかたをされるときもある。それは未婚の男がふつうスサンコで寝起きするからである。マレー風の高床家屋にあるスランビ Serambi とよく似た位置づけにある。
 スサンコにはダラム・バレにのぼるための土の階段 undakundak (奇数段がよいとされている)があり、それを境に「右のスサンコ」と「左のスサンコ」にわかれている。階段の位置は中央より左寄りに設けるのがよいとされていて、「右のスサンコ」「左のスサンコ」を「大きなスサンコ」「小さなスサンコ」ということもある。男であれ女であれ、日常的な作業はスサンコでおこなうことがおおく、一般に「右のスサンコ」は男たちがつどい、就寝をする部分であり、機織りなどの作業に女たちは「左のスサンコ」をもちいている。また「右のスサンコ」は接客空間とされるのに対して、「左のスサンコ」で接待をうけることは、歓迎されざる客のしるしとみなされていた。

 ところで、「右」「左」が実際に住居のどちら側をさすかということは、ササックの人びとにとっては決まりきったことで、いつも建物の奥を背に、正面を向いたときの位置をもとにしている。だからカマドのある側は、じつはダラム・バレの「左」、つまり象徴的にいうと「女」の側になり、サンコの空間分割は屋内にも連続しているのである。
 南部のランビタン Rembitan 地方では、サンコを「右」「左」で区別するかわりに、「海のサンコ」 Sesangkok Lauk 「陸のサンコ」 Sesangkok Daye という表現をつかう。この「海」「陸」をしめす「ラウ」「ダヤ」という言葉は、実際には東西に対立した方位軸をしめすときに、ササックがつかう方位名称である。たとえば、島の南部のランビタンでは「ラウ」(海)が南の方向にあたるが、島の北部よりのスンバルンやバヤンでは、おなじ呼称がまったく反対の北を意味することになる。

ブルガ Berugak  ササックの古典的な文化要素を豊富に残すバヤン Bayan 地方では、各住居にブルガ Berugak が付設し、接客空間や作業空間としてのスサンコの機能の大半はブルガに移されている。ブルガは地床式のバレ Bale に対して、四本ないし六本の柱でささえられた壁のない高床の建物である。スサンコが象徴的に男の空間とみなされているように、ブルガも女のバレに対するときは男の建物と位置づけられている。結婚前の男たちはブルガで寝起きするのである。バヤンの文化圏をはなれたスンバルンやランビタンでは、ブルガは集落全体で数棟しかないのがふつうで、集会場や儀礼場に使われることがブルガのもっとも重要な役割りになる。とくに葬式の際には、遺骸はいったんブルガに寝かされ、水浴と儀礼をすませてから埋葬された。

 バヤンでは、建物の屋根はすべて棟をリンジャニ山の方向(南)に向けている。ブルガもこれにあわせて南北に長辺を向けることになる。そこでバヤンの葬式では、儀礼をおこなう者がブルガの「陸」の側(南)に位置をしめ、遺骸は「海」の側(北)で儀式をすませると、頭を「海」の方向に向け直して墓地に運ばれた。
 土間で生活するササックのもとで、なぜブルガのような高床建築が維持されてきたのかということは、なかなかおもしろい話題である。

 ジャワ島に目を転じてみると、ブルガに類似する高床建築は、13世紀から14世紀にかけて東ジャワで建造されたチャンディ寺院の浮彫りにもさかんに描かれている。お隣りバリ島のバレ・バンジャール Bale Banjar (集落の集会場)もやはり壁のない高床の建物で、ブルガと似たような出自をもつとかんがえられる。
 さらに視野をひろげるなら、BalaiBaileo などの名でよばれる集落の共同家屋がその原型にあるのかもしれない。中央スラウェシの霊屋 Lobo Bada)、ボルネオの頭蓋の家 Baruk Bidayuh)やニアス島の集会場 Bale Nias)、ベトナム中央高地の男性集会場 ron ( Bana)などは、呼称がちがってもほぼおなじような役割を果たす建物である。この地域の集落には、閉じた性格の家屋に対して、外部に開かれた一種の公共建築がある。それは、儀式や集会の場であり、同時に、未婚男子のたまり場になり、来客の宿泊所も兼ねていた。集落内にこうした公共建築がないばあいには、穀倉の床下がそれにかわることも多い( Toba Batak、 Sa'dan Toraja)。もともと穀倉自体が共同建築だったのではないだろうか( Atoni)。また、各家がブルガのような建物をもつ例( Kisar)もある。
 もっとも、ササックのもとでは、バヤン地方をのぞいて、一般的な村落生活のなかでブルガの価値はさほど大きなものではなかった。なぜなら、住居にはすでにスサンコという類似の空間が発達していたからである。逆に、各戸にブルガのあるバヤンの住居ではこのスサンコの領域があまり明確ではないのである。

住居の中心 Bale Dalam  ダラム・バレ Dalam Bale の右半分を壁で仕切って小空間を設けることがある。その際にはこの空間をバレ・ダラム Bale Dalam (内部の家)とよび、屋内のそれ以外の部分をバレ・ルアール Bale Luar (外部の家)とよんでいる。バレ・ダラムは住居のなかでもっとも秘められた位置にあるもっとも神聖な空間である。コメを入れた壷が置かれ、儀礼につかう道具などの貴重品をここにしまう。
 むかしスンバルンにはミダンという一種の夜這いの風習があった。結婚前の男が夜ごとに女の家をおとずれて、女と語りあかすのである。このときに、未婚女子の寝床が設けられているのがバレ・ダラムのなかだった。外壁の一角にはちょうど話ができるくらいの小さな穴が開いていて、男は家の外に立ったまま女の話し相手をつとめねばならなかった。女は室内にいるからよいが、いくら熱帯とはいえ標高1200メートルの土地では夜の寒さが身にしみる。それでも、男たちは意にかなう女の心を射止めることができるまで、適齢期の女のいる家をもとめて、毎晩のようにミダンを繰り返したという。いまではミダンの風習も玄関からおとずれる紳士的なものに変わり、バレ・ダラムに寝床をもつ家はなくなった。
 バレ・ダラムはもともとコメを収納する空間であったが、こうした風習やバレ・ダラムで出産をする地方があったりするのをみると、家の豊穣や繁栄にかかわる活動がこの小空間を介しておこなわれていたらしい。

 住居にバレ・ダラムのないバヤン地方では、そのかわりに屋内の中央に高さ一メートル程度の高床を築いて、イナン・バレ Inan Bale という名の神聖な空間を設けている。イナンは母とか中心をあらわし、イナン・バレは文字どおり住居の中心を意味していた。これは四本あるいは六本の柱でささえられた高床穀倉風の構造で、この空間に米菓の供物をそなえるのは、家族なかの女性の役割だった。儀礼のときには、神官がひとりでこの空間にこもり、神に祈りを捧げるのである。
 イナン・バレのある住居は、ロンボック島でもバヤン地方にしか残されていない。ところが、ロンボック島以外の地域にも注意すると、地床の住居のなかにこうした高床の儀礼空間をそなえた例は、ほかにも知られている。
 ルソン島のボントック、それに小スンダ列島をはるか東にたどったキサール島やレティ島の住居は、生活空間として土間や低い寝台を利用し、その上に似たような高床構造を築いている。とくにキサール Kisar 島では、住居のほかにかならず男のための建物として、壁のない高床建築のラクホーン Lakhoun が付属しているから、バレとブルガを一対にするバヤンの家屋構成とも基本的に一致している。

ササックの空間構造

ロンボック島各地の報告を総合すると、ササックの住居は次のような規則にしたがって空間を構成しているらしい。

  • 家屋の棟の一端は神聖なリンジャニ山の方向を向いている。
  • このとき家屋の正面の位置はリンジャニ山が右手にくる側に設ける(ただし、右左の方向は常に屋内を背に正面のテラスを向いたときを基準にしている)。これは右手を聖、左手を穢とみなす観念が底流にある場合には当然の選択といえる。
  • こうした左右の分割は、家屋正面のテラスの空間にも反映されている。テラスの左半を「海のテラス」、右半を「陸のテラス」という呼称は、実際に右手にリンジャニ山があるときに、現実の地形とも合致するからである。
  • 「海のテラス」を「女のテラス」とよび、「陸のテラス」を「男のテラス」ともよんで、テラスの空間に男女による機能分化がみられる。これは、インドネシアで一般に男を右、女を左に結びつける双分的な観念とも矛盾を生じない配置である。
  • おそらくこうした象徴レベルでの空間分割は、屋内(ダラム・バレ)の配置にもおよんでいるのであろう。そのためにカマドのある世俗的な領域は常に左手に、コメを収納し儀礼を執行する小空間(バレ・ダラム)は右手に配置されている。
 家屋の空間分割をもとに、こうして右/左、聖/穢、男/女、陸/海、聖/俗のような象徴的な語彙を関連づけることは可能である。しかし、現実には集落が山の斜面に立地するような場合には、家屋は斜面に沿ってもっとも低い側に入口テラスを設けているのがふつうであって、以上にのべた規則がかならずしも厳密に守られることはない。だからといって、こうした象徴的な意味の体系に対して、その確定性の程度を推し量ってみることにはあまり意味がない。肝心なのは次のような点である。家屋が存在しなければ、こうした象徴的観念はばらばらの抽象的なレベルにとどまっている。ササックにとって家屋を建設するとは、象徴性をおびがちな既存の基本的要素(男女とか右左といった)と場にそなわる空間概念(陸海、山川といった)、それに家屋の建設によって必然的にうまれる空間の諸機能のあいだで、いかに矛盾なく抽象的な観念相互を整合させ、現実の空間のなかにそれを具体化してゆくかという、解決の場になっているということである。
 このような観念自体は、東南アジア島嶼部の各地におそらく普遍的にみられる観念であって、住居のバレや寄棟穀倉のゲレンなどとともに、ササックにヒンドゥー・ジャワの影響がおよぶ以前からそなわっていたものとおもわれる。ヒンドゥー・ジャワの文化はロンボック島にブルガをもたらし、それにつづくジャワ・イスラムはモスクをもたらすことに成功した。穀倉のアランの釣鐘形の屋根は、バリからの影響でうまれたのであろう。ササックはこれらの影響を地方的な差異のなかにとどめながら、地床の居住形態を維持してきたのである。それでは、バヤンの住居にある高床のイナン・バレは、こうした歴史のなかでいったいどんな意味をもつ空間だったのだろうか。

ロンボック島中部
平野にある小丘陵を利用した集落立地。土間式の家屋と釣鐘型の高床穀倉をもつササックの典型的な集落
Sade Lauk 1991
Lombok
Lombok

Sade 1985-1986
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サダ Sade は1985年当時、ロンボック島で唯一伝統集落の保存指定をうけていた。ロンボック島南部地方の典型的な乾期の景観
Lombok
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釣鐘型の穀倉 Alang はロンボック島の平野部に特有の形式。おそらくバリの影響でうまれたもの
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寄棟の穀倉 Ayung はロンボック島全域にある
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高床のブルガ Berugak は吹き放ちの多目的な建物
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土間式の家屋 Bale Tani は傾斜地を利用した土壇のうえに建てられる
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家屋前面のスサンコ Sesangkok は日中の作業と接客の空間
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屋内 Dalam Bale にはいると右手(奥からみて左)に調理場 Pawon があり、竈 jangkih が置かれている
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調理場と対面する側に Bale Dalam (内部の家)と呼ばれる小部屋がある。日常食べる米や祭祀用具などの置き場であると同時に出産や儀礼の場
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Pengeleng (Desa Sengkol) 1986
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穀倉と家屋が平行にならぶきれいな集落景観
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Junge (Desa Sengkol) 1985
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急勾配の斜面に立地する集落
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穀倉 Alang
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穀倉の下には高床テラスをもうけることもある
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鼠返し
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軒先のディテール
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軒先の垂木の納まり
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穀倉の棟木の納まり
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釣鐘型の曲面をささえるのは檳榔樹の靱性を利用した幅広の合掌材で、柱のない鳥かごのような構造


 ロンボック島東部 
乾燥地帯のつづくロンボック島東部でもリンジャニ山の麓だけは別天地。穀倉は低地に多い釣鐘型はなく寄棟風で、これはおそらくササック本来の形式。マジャパヒト王国にかかわる建国伝承がある

SEMBALUN 1986
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標高1200mにひらけた土地に Sembalun Lawang (右手前)と Sembalun Bumbung (左奥)のふたつの村がある
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Sembalun Lawang 1986年
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↑↓ 1991年になるとチガヤ葺き屋根はなくなっていた
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家屋(左)と米倉が平行にならぶ。ただし相続の結果、所有関係は錯綜している
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↓実測家屋の5年後
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ニンニクの収穫期には前面広場全体が乾燥用の吊り棚になる
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家屋前面のベランダをここではスサンド Sesando という
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タケの網代壁と扉 korikori
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Dalam Bale の左手(奥からみて)には竈 jalik と寝台 baton
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ニンニクの収穫期には屋根裏中にニンニクがさがる。 Bele Dalam の入口がみえる
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Bele Dalam は米の置き場。壺の中身は、奥から、日常食べる粳米、儀礼用の餅米、米を搗いた後の残り(鶏の餌)。かつては未婚女子がここで寝た
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穀倉 Geleng
Lombok
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長男が結婚して新居を建てるまでのあいだ、両親は穀倉の下などに住む
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 BAYAN 
Bayan はロンボック島北部山間に居住する。ササックとは異なる民族集団に分類されることもあるが、ロンボック島内の変異のひとつというのがちかい。家屋は中央に高床構造をもつ点でササックの一般家屋とは大きくことなり、むしろ東南アジア島嶼部に普遍的な高床住居の系譜にのる。ロンボック島の特徴である土間床の家屋の出自を知るうえで Bayan の建築は重要。

SENARU 1991 / 2013
Kec. Bayan, Kab. Lombok Timur
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おそらく観光開発のために移転してできた新村。平坦地に建つため家屋 Bale に前面ベランダがない。代わりに高床の Berugak を家屋ごとに付設している
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家屋 BaleBerugak を間にはさみ東 Timu 西 Bat に向き合ってならぶ。
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家屋前面のベランダを Sirap とよぶ。客人をむかえ、日中の作業をする場ということだが、実際にはその役目を Berugak がはたしている。
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家屋の中央に高床の Inan Bale (家の母、家の中心)が構える。右奥に竈 jenkiran がみえる。
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戸口をはいると、家屋中央に高床の Inan Bale (家の母、家の中心)が構える。右手に寝台 ambeng がある。寝るときには頭を daya(南・陸の方向)に向ける。lau'(北・海の方向)を向くのは死者のみ。
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村には Geleng (手前)と Sambi の二種類の穀倉がある
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Geleng は鼠返しと床下テラスをもつ格の高い穀倉
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小型の Sambi は Bayan 本来の形式という
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高床の Berugak は日中の生活空間
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BAYAN 1991
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Bayan にのこるタケ葺き atap santek のモスク
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REMBITAN 1985
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Bayan と同一形式のモスクがロンボック南部の Rembitan と Pujut にもある。
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Bayan のモスクが竹葺きなのに対して Pujut と Rembitan にのこるモスクはチガヤで葺かれている。
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Lombok
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PUJUT 2013
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Sengkol 村にある小高いPujut山の山頂に位置する。ロンボック島に伝わる古式のモスクのひとつ。
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8.6mの矩形平面の中央に4本の主柱 saka guru が立つ

Lombok
1985 Sade, Lombok
フィールドノート

The Sasak live mainly on the island of Lombok, Indonesia, numbering around 2.6 million (85% of Lombok's population). They are related to the Balinese in language and race, although the Sasak are predominantly Muslim while the Balinese are Hindu.
Wikipedia

Sasak 2,100,000 (1989). Lombok Island. Dialects: Kuto-Kute (North Sasak), Ngeto-Ngete (Northeast Sasak), Meno-Mene (Central Sasak), Ngeno-Ngene (Central East Sasak, Central West Sasak), Mriak-Mriku (Central South Sasak). Complex dialect network. Some 'dialects' have difficult intelligibility with each other. Related to Sumbawa and Balinese. Ethnologue

Melayu Online : Lombok Kingdom

Melayu Online : Arsitektur dan Tata Ruang
Melayu Online : Sasak Tribe Traditional House

Arsitektur dan Tata Ruang Rumah Tradisional Sasak Lombok

Tinjauan Filosofi : Rumah Adat Sasak

Kamus Bahasa Sasak



JAWA
高床の吹き放ち建物はジャワにもあった。 Candi Jago 13-14C
Oirata
キサール島の家屋では主屋 Le と高床の開放空間 Lakhoun がセットになっている
キサール島 | Kisar


Bali
バリ島の穀倉 jineng
バリ島 | Bali


◆以下の情報は未チェックです

Lombok
taum [Indigofera tinctoria] の葉をつぶして3日間水につけると青い染料になる
Lombok
kaju (kayu) lake [????] の樹皮を乾燥して煮出すと赤い染料ができる
Lombok
これらを混ぜると黒い染料(インディゴ)ができあがる
Lombok
kain berang (黒い布)


Lombok
ニンニクの収穫期には低地の村から多くの出稼ぎ人があつまる。 Sembalun
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土間生活をおくるササックにとってパンダヌスのマットは必須のアイテム

pandan: パンダヌスは籠やマットの材料としてひろく使われるだけでなく、香料として換金作物の仲間入りをしている。[Pandanus sp.]
rakuen mania


sutra: 葉をたたいて繊維を取りだしてロープに編む。馬や牛をつなぐ丈夫なロープができる。[???????]

saot : 結縛材。樹皮をむいて使用。強い。葉をおると白い樹液。[?????????]

injan bute : 結縛材。saot より強いが、堅く折れやすい。[?????????]

uar : 結縛材。樹皮をむいて使用。強さは saot と同程度。[?????????]


Lombok
屋根の葺き替え Sade 1986
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Lombok
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Lombok
Lombok
土壇は石積みのうえに土、水をまぜて塗り(籾殻をいれることも)、仕上げに牛糞(水牛のこともあるが牛がよい)と石灰をまぜて塗る。年1度の補修は主婦の仕事



kenyit / senan : 家屋の柱材として伝統的にもちいられてきた。[?????????]

timus : 家屋の柱材として伝統的にもちいられてきた。[?????????]

ipil : 穀倉の柱材として伝統的にもちいられてきた。ipil の一般名は merbau で、日本では太平洋鉄木として知られる。 [Intsia spp.]
Tropical Building Systems

loam : 穀倉の柱材として伝統的にもちいられてきた。棘あり。若葉を食用。[?????????]

ritip : 家屋の柱材に最適。 Sembalun [?????????]

kelabu : 家屋の柱材に最適。水に強い。 Sembalun [?????????]

suren : 板材によい。材質軽いため船材に最適。 (Sembalun) [Toona sureni]

Local Name: suren, surian, surian amba (Sumatera).



Lombok
大工道具:左上より penyasok 釿、kandik 斧、pemaja 小刀、timpas 鉞(片刃)、tata 鑿、tata 鑿、pantok 木槌、serut 台鉋、batik 鉈 [Sembalun]
Lombok
左より batik komak 木の切断、batik cucuk 木の切断(komak には首がない)、batik tobak 木の切断、batik golok 肉切包丁、batik berang 武器、batik timpas 削る・切り揃える(片刃)、pemaje 小刀 [Sade]
Bali
timpas は斫り作業がしやすいように枝の先がくの字に曲がっている。左きき用と右きき用 [Bali]




©minpaku digital archives : 3D drawing of MAYA by Takayuki Sui @ espa
SASAK HOUSE "Bale", Lombok
Sade, Desa Rembitan, Kec. Pujut, Kab. Lombok Tengah, Nusa Tenggara Barat, Indonesia (1985, 1986)
©minpaku digital archives : 3D drawing of MAYA by Takayuki Sui @ espa
SASAK GRANARY "Alang" and GAZEBO "Berugak", Lombok
Sade, Desa Rembitan, Kec. Pujut, Kab. Lombok Tengah, Nusa Tenggara Barat, Indonesia (1985, 1986)

drawing is not yet completed. please wait....
East Lombok
SASAK HOUSE "Bale"
drawing is not yet completed. please wait....
East Lombok
GRANARY "Geleang"
Desa Sembalun Lawang, Kec. Aik Mel, Kab. Lombok Timur, Nusa Tenggara Barat, Indonesia (1986)




[文献]