ササック (ロンボック島) | Sasak (Lombok)

 すこし大きな話から。現在のインドネシアの西半分、スマトラ島、ジャワ島、バリ島などは大陸からのびるスンダ大陸棚にのっている。氷河期にはユーラシア大陸と地続きだったといわれる土地である。ところが、バリ島より東、ロンボック海峡をこすと、そこはオーストラリアにつらなるサフル大陸棚の領域にはいる。動物相にも変化がみられることから、ロンボック海峡にはウォーレス線が通ることでも知られる。もっとも、人間たちはウォーレス線などおかまいなしに移動してきた。

 ロンボック島の面積は約4700㎢、お隣のバリ島よりもやや小さく、中北部には聖山と崇められるリンジャニ Rinjani 山(標高3726m)がそびえる。島の地形はこの山のある北部山岳地帯と南部の丘陵地帯、そして中央の平野部に三分され、島民のおおくは、この平野部に集中している。

 ロンボック島の住民の大半をしめるのは、約260万人におよぶササック Sasak 人で、その多くがイスラム教の信者とされている。しかしこのなかには、イスラムの戒律に忠実な Waktu Lima (文字どおりには五つの時の意味で、イスラムの五行、一日五回の礼拝を守ることからこの名がある)に対して、アニミズム的な信仰を強くのこした Wetu Teru (三つの時)も少なからずふくまれている。イスラム教が伝わる以前の土着の宗教は Boda と呼ばれ、精霊信仰と祖先祭祀をともなうその信仰は、Sasak 文化の基層にあって、伝統家屋を生みだし、それを維持させてきた原動力でもあった。

 ロンボック島にイスラム教が伝えられたのは16世紀初頭とされる。『ロンボック年代記』 Babad Lombok によると、東ジャワのグレシクの王スナン・ギリ Sunan Giri (1442- ジャワ島におけるイスラムの布教に貢献した聖者として有名)がジャワ以外の島じまに伝導者を派遣したとき、ギリの王子のスナン・プラペン Sunan Prapen がスンバワ島、バリ島とともにロンボック島にイスラム教を伝えたという。

 ロンボック島には、イスラム教の伝来からそう遠くない16世紀から17世紀ころに創建されたとみられるモスクが存在している。このようなモスクがあるのは、北部ロンボックのバヤン Bayan 、中部ロンボックのプジュット Pujut とランビタン Rembitan の三ヶ所で、いずれも二段になった宝形屋根をのせ、堂内に立てた4本の主柱 sangka guri でこの屋根をささえている。屋根は Bayan の竹葺き、Pujut と Rembitan のチガヤ葺きといった相違はあるが、家屋と同じ材料がつかわれている。これらの土着のモスクが現代のモスクとあきらかにちがうのは、礼拝のために堂内に設けられる壁龕のミフラブが正確にメッカの方角をさしていないことである。


Masjid Kuno Bayan Beleq

Masjid Kuno Rambitan

 インドネシアにイスラム教が伝えられた当初、伝導者のなかにはイスラム建築の技術者が含まれていなかったために、土着の建築様式と融合したモスクが各地に建設されることになった。しかし、ロンボック島ではササックの様式をもちいることはなく、すでにジャワ化されたモスクを受け入れたのだろう。屋根の頂が一点にあつまる宝形屋根のことをジャワではタジュグ tajug と呼び、モスクや墓廟 Makam などの宗教施設に利用されている。ジャワ島のデマックやクドゥスに残る16世紀の大モスクをみれば、その屋根が三段になった宝形屋根を載せていることがわかる。そればかりか、中央に霊的な4本の柱を立てるのも、ジャワ建築の伝統にしたがう手法であった。

 ロンボック島に残るこうした様式のモスクは、Sasak人のなかでも Wetu Teru の人びとが利用していた。偶像を禁ずるイスラム教の戒律にもかかわらず、モスクの梁に鳥の彫刻を飾ったり、Bayan のモスクではナーガ(竜)の像が安置されている。またそのために Waktu Lima がひろまるにつれて取り壊されてしまったモスクもある。

 ジャワ島との関係は、イスラム教の招来をさかのぼる14、15世紀、ジャワで栄えたマジャパヒト Majapahit 王国の時代からつづいていたらしく、マジャパヒト時代の著名な叙事詩である『ナーガラ・クルターガマ』 Nagara Krtagama のなかには、ロンボック島がその支配下にあったことが記録されている。『ナーガラ・クルターガマ』はマジャパヒト王国の宮廷詩人プラパンチャ Prapanca の作とされ、王国内のさまざまな事象を記録した叙事詩として、のちにジャワを支配した諸王国の年代記の先駆けをなすものである。これらの叙事詩はロンタルヤシの葉に線刻され、『ナーガラ・クルターガマ』を記したロンタル文書も、1894年にロンボック島の寺院から発見されたものである。

 ロンボック島の平野部には、Sasak人以外にもバリ島をはじめ、東のスンバワ島や北のスラウェシ島マカッサルからの植民がおこなわれていた。なかでもバリ島との関係は、バリ東部のカランガセム Karangasem王国の支配下にはいった18世紀中葉から、ことにロンボック島の西部を中心として Sasak人と Bali人のあいだには、水利や土地の問題についての協力関係がみられるようになっていた。ロンボック島西部の古都チャクラヌガラ Cakranegara には、ヒンドゥー的観念にもとづくグリッド状の都市が計画され、そこで Bali人はバリ本土とまったく同一の住宅や寺院を構えて生活していた。

 このように、ロンボック島の文化をかんがえるうえで、バリとジャワ、ヒンドゥーとイスラムとは無視することのできない二大源泉であった。Sasak はこのふたつの文化の影響を全身でうけとめながら、固有の建築的伝統を培ってきたのである。

スンバルン Sembalun

 リンジャニ山の山麓、標高1200メートルの土地に Sembalun は開けている。冷涼な気候と、ゆたかな水、緑をたたえる Sembalun の景観は、東部ロンボック特有の埃っぽいサバンナを延々と通過してきたあとでは、まるで桃源郷に達したかの錯覚をおぼえる。しかし、外界から隔絶していたこの土地にも、トラックが出入りするようになり、調査の数年前(1980年代初頭)には電気もひかれた。土地の買い占めが起こっているという噂もささやかれるようになった。観光化の波はバリ島をこえて、この島のあちこちにも確実に押しよせている。

 Sembalun の起源について、ある伝承は、かつてこの土地がパマタン Pamatan という名の王国であったことを伝えている。この王国はリンジャニ山の噴火によって壊滅し、難を逃れた住民はロンボック島各地に散って、それぞれの土地で王国を建設した。その後、7家族の住民が Sembalun に舞い戻り、ジャワのマジャパヒト王国の王族の手をかりて、そこにふたたび村を建設した。これが現在のスンバルン・ラワン Sembalun Lawan 村であり、このマジャパヒトの王族は村はずれに埋葬された。15世紀のことだったという。

Sasak の建築

Sasak の集落にはつぎの三種類の建築がある。
 ひとつは Bale という東南アジアではめずらしい地床式の家屋である。おなじ Bale でも北部の Bayan地方だけは異なる内部構造をしている。第二は高床式の穀倉。これには3つの形式があり、平野部に多いのはロンボック島のシンボルともなっている釣り鐘型の Alang、山岳部では通常の寄棟型をした Geleng (平野部では Ayung とも呼ばれる) があり、Bayan地方には通し柱を利用した小型の穀倉 Sambi もある。第三は高床開放空間の多目的な建物 Berugak で、Bayan地方だけは各家に付属するが、一般には集落内の共同建築としてせいぜい数棟が建てられている。
 それらの建築物の配置も、Bayan地方をのぞいて、全島でほぼ一定している。

集落の配置と方位

 一般に Sasak の集落は、家屋と穀倉が向かい合って整然とならんでいる。土間で生活する Sasak人の家屋は傾斜地を利用して建てられることが多く、敷地に余裕がなければ穀倉は別の場所に建て、斜面に沿って家屋の列だけが平行にならぶ。家屋は斜面の低い側が正面で、入口前には吹き放ちのベランダ空間がもうけられている。斜面を利用して1メートルくらい段差のある屋内へは階段をのぼってあがりこむことになる。比較的平坦な土地に建てる場合でも、わざわざ土壇を築いて入口の段差をつくりだしているので、家屋はそのようなものと理解されていることがわかる。では、平坦地の家屋はいったいどの方向を向いて建てられるのだろう?


丘陵を囲む集落
Sade, Pujut, Lombok Tengah

平坦池の集落
Segenter, Bayan, Lombok Utara

 それを知るためには、Sasak の方位観について理解せねばならない。
 オーストロネシア語族のつねで、Sasak にも南北の呼称がない。そのかわりに、海 Lau と内陸 Daya の方向にもとづいた相対方位を利用している。だから、ロンボック島南部の平原、丘陵地帯では、おおよそ Daya は北、Lau は南を意味するのに対して、北岸にちかい Bayan 地方や Sembalun ではこれが反転する。こうした考え方は、Ke-aja(内陸へ)、Ke-lod(海へ)が方位名称になっているバリ島でもおなじみである。
 つまり、土地の制約さえなければ、Sasak の家屋はより傾斜の低い側、Daya ではなく Lau に正面が向くように建てられる(はずだ)。実際に、ロンボック島東部の Sembalun では、家屋は棟を東西に、入口を Lau 即ち、北に向けている。
 ところが、この規則は全島でまもられているわけではない。なぜなら、ひとつには、山や丘陵の斜面はかならずしも南北の軸線にのっていないという現実がある。さらに話をややこしくしているのは、イスラム教の観念にしたがって Sasak人のあいだに南北の絶対的な方位軸が生まれていることである。
 たとえば、人が死ぬと遺骸の頭を「北」に向けて寝かせ、顔が西を向くようにするといった習慣を実施するときの「北」は、地形にしたがう相対方位ではなく絶対方位としての北である。そのため、ロンボック島中部では海/陸の方向によらずに Daya を北、Lau を南と読み替える事態が進行している。
 家屋が伝統的な方位軸に沿って建てられていたとしても、現代Sasak人の観念にしたがうと、すでに軸線をまもらない建物と認識されるわけだ。

家屋 Bale

 家屋のことを Bale 、あるいは Bale Tani (農民の家) 、Bale Jama (ふつうの家) などという。Bale の形式は、北部山地の Bayan 地方をのぞいてだいたい一定している。山の斜面か、平地の場合には土壇をたかく盛りあげて、そのうえに建設する。屋根に小屋組がなく、棟木がさほど高くあげられていないので、こうでもしなければ、建物の前面で屋根の軒先が地面に届いてしまう。

 家屋前面にはベランダ空間スサンコ Sesangkok、あるいは単に Sangkok (Sembalun では Sesando) がある。屋内 Dalam Bale (文字通りBaleの内部) が私的な領域であるのに対して、Sesangkok には壁がなく外部に開かれている。Dalam Bale が女の空間であるのに対して、Sesangkok は男の空間といわれるときもある。未婚の男は屋内にいることを避けて大抵 Sesangkok で寝起きするからである。反対に、未婚の娘は Sesangkok に寝てはならない。マレー風の高床家屋にあるスランビ Serambi とよく似た位置づけにある。


右のスサンコ:男たちがつどう

左のスサンコ:機織りの道具がみえる

Sade, Lombok Tengah 1985
 Sesangkok には Dalam Bale にのぼるための土の階段 undak-undak (奇数段がよいとされている)があり、それを境に「右のスサンコ」 Sesangkok Kanan と「左のスサンコ」 Sesangkok Kiri にわかれている。階段の位置は中央より左寄りに設けるのがよいとされていて、「右のスサンコ」「左のスサンコ」を「大きなスサンコ」「小さなスサンコ」ということもある。男であれ女であれ、日常的な作業は暗い屋内を避けて Sesangkok でおこなうことがおおく、一般に「右のスサンコ」は男たちがつどい、就寝をする部分であり、機織りなどの作業に女たちは「左のスサンコ」をもちいている。また「右のスサンコ」は接客空間とされるのに対して、「左のスサンコ」で接待をうけることは、歓迎されざる客のしるしとみなされていた。


ロンボック島中部の家屋平面
Sade, Lombok Tengah

 ところで、「右」「左」が実際に家屋のどちら側をさすかということは、Sasak の人びとにとっては決まりきったことで、いつも建物の奥を背に、正面を向いたときの位置をもとにしている。
 南部の Rembitan 地方では、Sesangkok を「右」「左」で区別するかわりに、「海のスサンコ」 Sesangkok Lauk 「陸のスサンコ」 Sesangkok Daye という表現をつかう。家屋が東を向いているせいもあるだろうが、象徴論風に言えば、右・男・海/左・女・陸のような対応関係が成立しているようだ。

 Dalam Bale への入口 lawang は引き戸になっている。この引き戸は、戸口の上下に竹などでレールをつくり、その間に扉を釣り込んで滑らせるようにしたもので、ロンボック島以外では例がない。Dalam Bale には窓がなく、この戸口を閉ざしてしまうと昼間でもまっ暗な空間である。土間のうえにパンダヌスの葉を編んだマット tepah を敷いて、夫婦、老人、子どもと未婚の女がそこで生活する。


Sade, Lombok Tengah 1986

Sembalun Bumbung 1986

Dalam Bale 左側のしつらい

 調理のためのカマド jangkih が入口をはいって右側の壁ぎわにならび、その傍らには水甕 selo が置かれている。屋根と外壁の境の高さに、壁面にそって棚がしつらえられ、無数の甕や丸めたマット、食器入れの篭、サロン(腰巻き)のはいったロンタルヤシ製の化粧箱 saok lelean などがこの上に保管されている。Sembalun では、カマドの横にベッド baton のあるきわめて様式的な構えが出来あがっている。
 ところで、カマドのある側は Sesangkok Kiri (左のスサンコ) の延長上にあって、Dalam Bale の右側ではなくて左側、つねに女の領域に位置していることがわかる。

家の中の家 Bale Dalam


ロンボック島東部の家屋平面
Sembalun Lawang, Lombok Timur

 Dalam Bale の右手には壁で仕切られた小部屋がある。Bale Dalam (内部の家) と呼ばれ、屋内のそれ以外の部分 Bale Luar (外部の家) に対して、いわば家屋のもっとも内奥の領域にあたる。普段はコメを入れた甕が置かれ、儀礼につかう道具などの貴重品をここにしまう。

 むかし Sembalun には midan という一種の夜這いの風習があった。結婚前の男が夜ごとに女の家をおとずれて、語りあかすのである。このときに、未婚女子の寝床 baton が設けられているのが Bale Dalam のなかだった。外壁の一角にはちょうど話ができるくらいの小さな穴が開いていて、男は家の外に立ったまま女の話し相手をつとめねばならなかった。女は室内にいるからよいが、いくら熱帯とはいえ標高1200メートルの土地では夜の寒さが身にしみる。それでも、男たちは意にかなう女の心を射止めることができるまで、適齢期の女のいる家をもとめて、毎晩のように midan を繰り返したという。こうして意中の相手とむすばれると、男は女を家族のもとから盗み、彼の兄弟や友人宅に隠す。3~7日ほど、女の両親はいなくなった娘を捜しまわるが、相思相愛の若者たちの意志がつたわると、Tobat(婚礼)となり、女は男の家で住むようになる。ロンボック島の略奪婚として知られる風習だ。もっとも、いまでは midan の風習も玄関からおとずれる紳士的なものに変わり、Bale Dalam に寝床をもつ家はなくなった。

 Bale Dalam はもともとコメや貴重品を収納する空間であったが、こうした風習や Bale Dalam で出産をする地方があったりするのをみると、家の豊穣や繁栄にかかわる活動がこの小空間を介しておこなわれていたようである。


Bale Dalam の入口
Sembalun Lawang 2013

Inan Bale
Senaru 2013

家の中心 Inan Bale


ロンボック島北部の家屋平面
Segenter, Lombok Utara

 屋内に Bale Dalam のない Bayan 地方では、そのかわりに屋内の中央に高さ1メートル程度の高床を築いて、Inan Bale という名の神聖な空間を設けている。inan は母や中心を意味し、Inan Bale は文字どおり家の核に相当する。この空間には米壺や貴重な家財をしまうだけでなく、祖先を祀り、家庭内の儀式をおこなう場でもあった。儀礼の際には、司祭がひとりでこの空間にこもり、祖霊に祈りを捧げたという。結婚後に婚入した花嫁は花婿とともに3日間 Inan Bale で夜をすごす決まりだった。そうして家族となった女性がここに米菓の供物をそなえる役割を担うとされてきた。こうした慣習は、稲の女神 Dewi Sri を祀るジャワ家屋の Krobongan / Sentong Tengah を髣髴とさせる。
 その構造は4本ないし6本の柱で支えられた高床の穀倉そのものと言ってよい。Inan Bale のある家屋は、ロンボック島でも Bayan 地方にしか残されていないが、ロンボック島以外の地域にも注意すると、東部インドネシアの家屋全般に通底する構造形式であることがわかる。たとえば、小スンダ列島をはるか東にたどったキサール島やレティ島の家屋は、土間の生活空間のうえに類似する高床構造を築いている。キサール島では、母屋のほかにかならず男のための建物として、壁のない高床建築の Lakhoun が付属しているから、BaleBerugak を対にする Bayan の建築構成とも合致している。

初柱 tekan padu

 家屋の南東隅の柱を tekan padu (tekan pepadu) といい、建設はこの柱建からはじめる。その際には Nokolan という儀礼をおこなう。司祭 Mangku がクミリの木 (ククイ [Aleurites moluccana]) でつくった皿 taktakan にお金、シリー・ピナン、タバコ、コメをのせ、第一柱の足元に置く。以降、時計回りに柱を建てる。

ブルガ Berugak


ロンボック島北部の集落構成
Segenter, Lombok Utara

 ササックの古典的な文化要素を豊富に残す Bayan 地方では、各家屋に Berugak が付設し、接客空間や作業空間として利用されている。Berugak は地床式の Bale に対して、4本ないし6本の柱でささえられた壁のない高床の建物である。Sesangkok が象徴的に男の空間とみなされているように、BerugakBale に対するときは男の建物と位置づけられている。結婚前の男たちは Berugak で寝起きするのである。Bayan の文化圏をはなれた東部の Sembalun や中部の Rembitan では、Berugak は集落全体で数棟しかないのがふつうで、その役割は集落内の集会や儀礼の場であった。とくに葬式の際には、遺骸はいったん Berugak に寝かされ、水浴と儀礼をすませてから埋葬された。

 Bayan では、建物の屋根はすべて棟をリンジャニ山の方向、つまり、Daya (陸) / Lau側 (北) の軸線にのせている。Berugak もこれにあわせて南北に長辺を向けることになる。そこで Bayan の葬式では、儀礼をおこなう者が BerugakDaya側に位置をしめ、遺骸は Lau側に寝かせて儀式にのぞむ。葬儀が済むと、遺体の頭を Lau の方向に向け直してから墓地に運ばれた。

 土間で生活する Sasak のもとで、なぜ Berugak のような高床建築が維持されてきたのかということは、なかなかおもしろい話題である。

 ジャワ島に目を転じてみると、Berugak に類似する高床建築は、13世紀から14世紀にかけて東ジャワで建造されたチャンディ寺院の浮彫りにもさかんに描かれている。お隣りバリ島の集会場 Bale Banjar もやはり壁のない高床の建物で、Berugak と似たような出自をもつとかんがえられる。
 さらに視野をひろげるなら、BalaiBaileo などの名でよばれる集落の共同家屋がその原型にあるのかもしれない。中央スラウェシの霊屋 Lobo Bada)、ボルネオの頭蓋の家 Baruk Bidayuh)やニアス島の集会場 Bale Nias)、ベトナム中央高地の男性集会場 ron ( Bana)などは、呼称がちがってもほぼおなじような役割を果たす建物である。この地域の集落には、閉じた性格の家屋に対して、外部に開かれた一種の公共建築がある。それは、儀式や集会の場であり、同時に、未婚男子のたまり場になり、来客の宿泊所も兼ねていた。集落内にこうした公共建築がないばあいには、穀倉の床下がそれにかわることも多い( Toba Batak Sa'dan Toraja)。もともと穀倉自体が共同建築だった可能性を示唆する( Atoni)。また、先述したように、各家が Berugak のような建物をもつ例( Kisar)もある。
 もっとも、Bayan地方をのぞいて、一般的な家庭生活のなかで Berugak の価値はさほど大きなものではなかった。なぜなら、家屋にはすでに Sesangkok という類似の空間が発達していたからである。逆に、各戸に Berugak のあるBayan の家屋では Sesangkok の領域自体が狭くあまり機能的ではないのである。

穀倉

 ロンボック島北部の Bayan地方では 家屋 Bale と高床の Berugak が対になってならぶのに対して、他の地方では一般に高床の穀倉が家屋と向き合うように建てられる。Sembalun では、家屋と穀倉の列が棟をリンジャニ山に向けて平行にならぶ整然とした集落配置をみることができる。対面する家屋と穀倉は本来おなじ所有者が建設してきたとおもわれるが、相続を繰り返した結果だろうか、Sembalun では向かいあう建物同士の所有関係は錯綜している。これについて、万一火災がおきた場合に、財産の一部を守るための手段だと住民たちは説明する。実際に、Sembalun Lawang では1961年に大火があり多くの建物が焼失した。穀倉自体は売買の対象でもあり、裕福な者のなかには、穀倉を複数棟所有する者もいた。
 一般に東南アジアでは、穀倉はただコメを収納する空間であるばかりでなく、その床下をさまざまな用途に利用する。Sembalun の場合には、長男が結婚して新居を構えるまでのあいだ、両親や他の兄弟たちは穀倉の床下に仮住まいする習わしがあった。

 ところで、先述したようにロンボック島の穀倉には3種類の形式がある。Sembalun にあるのは寄棟の屋根を載せた Geleng という穀倉形式で、屋根の形だけをみると家屋と穀倉の区別はつかない。Geleng はロンボック島の東部や北部の山岳地帯ではしごく一般に見られる穀倉建築である。たいてい4本の主柱で軸組をつくり、その上に大きな葛籠を載せたと考えればよい。柱頭の鼠返しが建物の由来を物語っている。


束柱をもちいる Geleng の構造

通し柱をもちいる Sambi の構造

 Bayan地方には Geleng より小型の Sambi という穀倉形式も存在する。丸太の束柱を利用する Geleng に対して、Sambi は角材の通し柱が屋根までのびる。稻米を納める高倉部分はこの通し柱の途中にはめ込まれているのである。Geleng のほうが格上、しかし、Bayan 本来の穀倉形式は Sambi だという。
 Bayan 同様に、束柱と通し柱双方の穀倉をもつ民族に西ジャワの Baduy がいる。束柱と鼠返しをもつ穀倉を Leuit Lenggang、より簡便な通し柱の穀倉を Leuit Karumbung と呼んで使い分けている。

 もっとも、Sasak の穀倉といえば釣鐘形の屋根を載せた Alang のほうがよく知られている。釣鐘形はロンボック島の象徴として役所の建築にまで援用されている。平野部の穀倉の典型とされる Alang だが、その独特の屋根形態は曲面にまげた垂木を鳥篭のように編んでいるだけの単純きわまりないものだ。お隣バリ島の穀倉を形だけ模倣してつくったようにもみえる。alang はスラウェシ島南部やスンバワ島西部でも穀倉をさす言葉であり、言語のうえからは、マカッサルやスンバワの影響があるのかもしれない。

ロンボック島中部

Lombok
平野にある小丘陵を利用した集落立地。土間式の家屋と釣鐘型の高床穀倉をもつササックの典型的な集落景観がひろがる。Sade Lauk
REMBITAN
Pujut 1985/1986
Lombok
Pujut村 には Sengkol と Rembitan の2箇所に古式のモスクがのこる。いずれも小高い丘の上に建ち、屋根はチガヤで葺かれている。
Lombok
Masjid Kuno Rambitan
Lombok
Lombok
Lombok
Lombok
SADE
サダ Sade は1985年当時、ロンボック島で唯一伝統集落の保存指定をうけていた
Lombok
ロンボック島南部地方の典型的な乾期の景観。1985年9月初
Lombok
そろそろ乾期も終わり。1986年10月末
Lombok
家屋と穀倉が平行にならぶ
Lombok
釣鐘型の穀倉 Alang はロンボック島の平野部に特有の形式。おそらくバリの影響でうまれた形態
Lombok
Lombok
寄棟の穀倉 Ayung はロンボック島全域にある
Lombok
高床のブルガ Berugak は吹き放ちの多目的な建物
Lombok
Lombok
土間式の家屋 Bale Tani は傾斜地を利用した土壇のうえに建てられる
Lombok
Lombok
Lombok
家屋前面の Sesangkok は日中の作業と接客の空間
Lombok
屋内 Dalam Bale にはいると右手(奥からみて左)に調理場 Pawon があり、竈 jangkih が置かれている
Lombok
調理場と対面する側に Bale Dalam (内部の家)と呼ばれる小部屋がある。日常食べる米や祭祀用具などの置き場であると同時に出産や儀礼の場
Lombok
Lombok
SADE LAUK 1991
Lombok
Lombok

SUKADANA
Pujut 1986
PENGELENG
Lombok
穀倉と家屋が平行にならぶきれいな集落景観
Lombok
Lombok
Lombok
Lombok
Lombok

SENGKOL
Pujut 1986
Lombok
街道沿いの小高い丘 Pujut山の頂にある古式のモスクのひとつ
Lombok
8.6mの矩形平面の中央には4本の主柱 saka guru が立つ
JUNGE
Lombok
急勾配の斜面に立地する集落
Lombok
穀倉 Alang
Lombok
Lombok
穀倉の下には高床テラスをもうけることもある
Lombok
鼠返し
Lombok
軒先のディテール
Lombok
釣鐘型の曲面をささえるのは檳榔樹の靱性を利用した幅広の合掌材で、柱のない鳥かごのような構造
Lombok
軒先の垂木の納まり
Lombok
Lombok
穀倉の棟木の納まり

ロンボック島東部

Lombok
乾燥地帯のつづくロンボック島東部でもリンジャニ山の麓だけは別天地。穀倉は低地に多い釣鐘型はなく寄棟風で、これはおそらくササック本来の形式。マジャパヒト王国にかかわる建国伝承がある
SEMBALUN 1986
Lombok
標高1200mにひらけた土地に Sembalun Lawang (右手前)と Sembalun Bumbung (左奥)のふたつの村がある
Lombok
家屋と米倉が向き合って平行にならぶ集落。ただし相続の結果、所有関係は錯綜している。Sumbalun Lawang は1961年の大火で多くの家屋が焼失した。穀倉が家屋と離れているのは火事への対策ともいわれる

↓ 1991年になるとチガヤ葺き屋根はなくなっていた
Lombok
Lombok

Lombok
家屋 Bale(左)と米倉 Geleng(右)
Lombok

↓実測家屋の5年後
Lombok

Lombok
ニンニクの収穫期には前面広場全体が乾燥用の吊り棚になる
Lombok
家屋前面のベランダをここではスサンド Sesando という
Lombok
Sesando で手作業中
Lombok
タケの網代壁と扉 korikori
Lombok
Dalam Bale にはいって右手には竈 jalik と寝台 baton がある
Lombok
Sembalun Lawang
Lombok
Sembalun Bumbung

↓2013年の状況
Lombok
カマドもベッドも撤去され、、、

Lombok
ニンニクの収穫期には屋根裏中にニンニクを吊りさげる
Lombok
Dalam Bale 左手には Bale Dalam への入口がある
Lombok
Lombok
Bale Dalam は米の置き場。かつては未婚女子がここで寝た
Lombok
壺の中身は、奥から、日常食べる粳米、儀礼用の餅米、米を搗いた後の残り(鶏の餌)
Lombok
家屋に対面して穀倉 Geleng
Lombok
Lombok
Lombok
Lombok
長男が結婚して新居を建てるまでのあいだ、両親は穀倉の下などに住む
Lombok
Lombok
穀倉 Geleng

ロンボック島北部

Lombok
Bayan はロンボック島北部山間に居住する。ササックとは異なる民族集団に分類されることもあるが、ロンボック島内の変異のひとつというのがちかい。家屋は中央に高床構造をもつ点でササックの一般家屋とは大きくことなり、むしろ東南アジア島嶼部に普遍的な高床住居の系譜にのる。ロンボック島の特徴である土間床の家屋の出自を知るうえで Bayan の建築は重要。
BAYAN
Bayan 1991
Lombok
Masjid Bayan Beleq
Lombok
屋根はタケで葺かれている atap santek のモスク
Lombok
Lombok

SENARU
Bayan 1991/2013/2015
Lombok
集落はリンジャニ山に向かう軸線に沿う
Lombok
平坦地に建つため家屋 Bale に前面ベランダがない。代わりに高床の Berugak を家屋ごとに付設している
Lombok
家屋 BaleBerugak を間にはさみ東 Timu 西 Bat に向き合ってならぶ。2013年
Lombok
家屋前面のベランダをここでは Sesirap とよぶ。客人をむかえ、日中の作業をする場ということだが、実際にはその役目を Berugak がはたしている。
Lombok
米櫃 monjeng
Lombok
戸口をはいると、家屋中央に高床の Inan Bale (家の母、家の中心)が構える。右手に寝台 ambeng がある。寝るときには頭を daya(南・陸の方向)に向ける。lau'(北・海の方向)を向くのは死者のみ。
Lombok
Lombok
Lombok
村には Geleng (手前)と Sambi の二種類の穀倉がある
Lombok
Geleng は鼠返しと床下テラスをもつ格の高い穀倉
Lombok
2015年
Lombok
Lombok
小型の Sambi は Bayan 本来の形式という
Lombok
2015年
Lombok
Lombok
高床の Berugak は日中の生活空間
Lombok
Lombok
2015年
Lombok

SEGENTER, Sukadana
Bayan 2015
観光村として南の Sade とならび称される。家屋中央に高床構造をもつ点は Senaru と同様
Lombok
Lombok
家屋Baleの間に高床のBerugak
Lombok
家屋 Bale
Lombok
軒下の Sesangkok
Lombok
扉 baban
Lombok
Lombok
Lombok
高床構造 Inan Bale「家屋の中心」
Lombok
Lombok
Lombok
Lombok

Lombok
1985 Sade, Lombok
フィールドノート

The Sasak live mainly on the island of Lombok, Indonesia, numbering around 2.6 million (85% of Lombok's population). They are related to the Balinese in language and race, although the Sasak are predominantly Muslim while the Balinese are Hindu.
Wikipedia

Sasak 2,100,000 (1989). Lombok Island. Dialects: Kuto-Kute (North Sasak), Ngeto-Ngete (Northeast Sasak), Meno-Mene (Central Sasak), Ngeno-Ngene (Central East Sasak, Central West Sasak), Mriak-Mriku (Central South Sasak). Complex dialect network. Some 'dialects' have difficult intelligibility with each other. Related to Sumbawa and Balinese. Ethnologue

Melayu Online : Lombok Kingdom

Melayu Online : Arsitektur dan Tata Ruang
Melayu Online : Rumah Adat Sasak

Tinjauan Filosofi : Rumah Adat Sasak

Etnis Lombok



JAWA
高床の吹き放ち建物はジャワにもあった。 Candi Jago 13-14C
Oirata
キサール島の家屋では主屋 Le と高床の開放空間 Lakhoun がセットになっている
キサール島 | Kisar


Bali
バリ島の穀倉 jineng
バリ島 | Bali



Lombok
taum [Indigofera tinctoria] の葉をつぶして3日間水につけると青い染料になる
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kaju (kayu) lake [????] の樹皮を乾燥して煮出すと赤い染料ができる
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これらを混ぜると黒い染料(インディゴ)ができあがる
Lombok
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kain berang (黒い布)


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ニンニクの収穫期には低地の村から多くの出稼ぎ人があつまる。 Sembalun
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土間生活をおくるササックにとってパンダヌスのマットは必須のアイテム

pandan: パンダヌスは籠やマットの材料としてひろく使われるだけでなく、香料として換金作物の仲間入りをしている。[Pandanus sp.]
rakuen mania


sutra: 葉をたたいて繊維を取りだしてロープに編む。馬や牛をつなぐ丈夫なロープができる。[???????]

saot : 結縛材。樹皮をむいて使用。強い。葉をおると白い樹液。[?????????]

injan bute : 結縛材。saot より強いが、堅く折れやすい。[?????????]

uar : 結縛材。樹皮をむいて使用。強さは saot と同程度。[?????????]

屋根の葺き替え Sade 1986
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チガヤ re のパネルをつくる
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棟にはイネ jerami の束を15個程度ならべる。イネの収穫までチガヤで代用することもある
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●Baleの葺き替え決算
  (1986年 Sade村)
チガヤ 1000RP/抱×100抱
竹   500RP/本×300本
労働  500RP×30人×1日
食事・コーヒー・タバコ
    500RP×30人×2回
合計  295,000RP
 これでおよそ15年もつという
●Sembalun には地縁的な相互扶助の組織 Gebuk があり日当は発生しない

teren の網代壁にもいろいろある Sembalun
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Bale の外壁
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この編み方を tawin という
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穀倉 Geleng の壁面
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このような網代 bide という
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穀倉の開口部は tawin、周囲は tawin golengtawin goleng は竹を表裏交互にならべて編む

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ロンタルヤシの葉でつくられた衣装箱 saok lelean


Lombok
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土壇は石積みのうえに土、水をまぜて塗り(籾殻をいれることも)、仕上げに牛糞(水牛のこともあるが牛がよい)と石灰をまぜて塗る。年1度の補修は主婦の仕事



senang : 家屋の柱材として伝統的にもちいられてきた。[Neonauclea calycina (Bartb) Merr]


kunyit : 家屋の柱材として伝統的にもちいられてきた。[Zizyphus angustifolius]


timus : 家屋の柱材として伝統的にもちいられてきた。[?????????]

ipil : 穀倉の柱材として伝統的にもちいられてきた。ipil の一般名は merbau で、日本では太平洋鉄木として知られる。 [Intsia spp.]
Tropical Building Systems

loam : 穀倉の柱材として伝統的にもちいられてきた。棘あり。若葉を食用。[?????????]

ritip : 家屋の柱材に最適。 Sembalun [?????????]

kerabu : アカギ。水に強く家屋の柱材に最適。 Sembalun [Bischoffia javanica BL]

perabu : Bayan では柱には適さず、家屋の横架材に利用。 Bayan [Bischoffia javanica BL]


suren : 板材によい。材質軽いため船材に最適。 (Sembalun) [Toona sureni]

Local Name: suren, surian, surian amba (Sumatera).



kelanjuh : 家屋の柱材に最適。 Bayan [Albizia procera Benth]


Lombok
大工道具:左上より penyasok 釿、kandik 斧、pemaja 小刀、timpas 鉞(片刃)、tata 鑿、tata 鑿、pantok 木槌、serut 台鉋、batik 鉈 [Sembalun]
Lombok
左より batik komak 木の切断、batik cucuk 木の切断(komak には首がない)、batik tobak 木の切断、batik golok 肉切包丁、batik berang 武器、batik timpas 削る・切り揃える(片刃)、pemaje 小刀 [Sade]
Bali
timpas は斫り作業がしやすいように枝の先がくの字に曲がっている。左きき用と右きき用 [Bali]




©minpaku digital archives : 3D drawing of MAYA by Takayuki Sui @ espa
SASAK HOUSE "Bale", Lombok
Sade, Desa Rembitan, Kec. Pujut, Kab. Lombok Tengah, Nusa Tenggara Barat, Indonesia (1985, 1986)
©minpaku digital archives : 3D drawing of MAYA by Takayuki Sui @ espa
SASAK GRANARY "Alang" and GAZEBO "Berugak", Lombok
Sade, Desa Rembitan, Kec. Pujut, Kab. Lombok Tengah, Nusa Tenggara Barat, Indonesia (1985, 1986)

[文献]