1986

10月20日(月) 晴のち曇 Mataram
バリ島での調査を終え、ロンボック島へ向かう。
Padangbai発午前9時。快晴。マルクでの航海とくらべると、このフェリーは格段に大きく、たかをくくって本を読んでいると、揺れがひどいために酔ってしまった。軽い吐き気。読書を中止するとこれもやむ。
バリからのフェリーは針路を北東にとり、途中で南東に針路をかえる。大きく北を迂回。ロンボック島のLembar着は午後1時(東部時間の午後2時)。Lembarはいかにもロンボック島をおもわせる朴訥な風情の港。フェリーの操縦がヘタクソなためか、接岸までにずいぶん時間がかかり、その間、客室を降りた乗客たちはバスやトラックの隙間に荷物をならべて待つ。
LembarからMataramまでは送迎コルトがある。赤児を連れた初老の(どうみても)婦人は、車掌の制止をきかず、荷物を客席にはこびこみ、挙げ句、子どもは途中で嘔吐し泣きはじめる。傍若無人のこの婦人と嘔吐物の悪臭。
Mataramに近づくにつれて雲、雨が降りはじめる。スラバヤで会ったことのあるイワン・タナヤ氏の店にころがりこむ。あの時、彼と同行した刺青の弟氏は、つい数日前に、スンバワ島のDompuで刺し殺されたという。犯人4人がつかまり、うちひとりをのこしてすでに放免された。この家から学校へ通うSMP(中学生)の男の子は、子どものくせにやけに人扱いにたけている。一緒に食事をしながら、「少ししか食べないんですね、もっと召し上がってください。」などと言う。この子はイワンの店にすわって一人前に金勘定から商いまでする。さすがは中国人。

月日()

11月21日(金) 晴 Dompu
夜半より右脇腹の激痛。右肩まで痛みがはしり、肝臓障害だとしたら、もうバリへもどるしかないと考えながら寝返りをうちつづけた。
朝、ともかく採図の残りだけは終わらせておこうと苦痛をおさえて出発。脂汗が吹き出し、くしゃみをするのも痛くておもわず息をのむ。作業をはじめるとやや痛みがおさまり、午前中で終了。そのまま古い形式の穀倉をさがして、これは2時間ちかくで片付ける。
建物部材名称の聞き取りができず、体調はわるいし、村長は逃げてばかりでアテにならない。というわけで、村長の家族に当たり散らし、荷物をまとめて帰り支度をし、バスを待てどもバスは来ず。たまたま通りかかった男をつかまえて、部材名の聞き取りをしているところへようやく村長氏もあらわれ、調査を終える。
夕刻、ベンフル(馬車)をつかまえ、隣村の Daha へ。Daha からならたくさんベモがある、という話は嘘で、ここでも待てど暮らせどベモは来ず、日は暮れる。運良くあらわれたトラックに乗って、Dompu へと帰る。トラックのボスはこんな地方にしてはやたらと最新の政治問題にくわしい中国人で、Huu から木材を積み、Dompu の学校を建設する仕事を請け負っているという話。
帰宅後、タン・スンミン(陳循明)家で長々と話し、体調が悪いのになかなか床にはいれず。しんどい。
日本の薬(正露丸)の大瓶を戦後日本人が家に残していった。家族の者はこれを Obat Jepang(日本の薬)と呼んで、つい10年ほど前まで愛用していたという。この薬はちょうど tai kambing(ヤギの糞)だというが、まったく瓜二つといってよい。大きさはちがうが。
11月22日(土) 晴のち曇 Bima
タンの案内でビマ Bima着。Bappeda(Badan Perencanaan Pembangunan Daerah 州開発計画局)に書類を出しに行く。市長あての書類を書いてもらうよう頼むと、このタイプを請け負った男はどうやら書式もわからずにタイプを打ちはじめたらしい。他県の書類を見せても耳をかさず。30分以上待った挙げ句、出来上がった書類は所長の目にかなわず作り直しとなった。
そこで警察へ報告に行くと、ここでもご丁寧に書類にハンコを押してくれてありがた迷惑なこと。Bappeda にもどる。
待ち構えていたのは調査担当の係官で、彼は自分で作ったという Donggo と Bima の歴史にかんするタイプ本(約50ページ)を1万RPで買わないか。これは実証的な歴史の話ではなく、彼自身の民間伝承の聞き取りと一般的な史実を綴ったもので、それなりに役に立つ本ではある。けれども言い値が高すぎる。この本を断ると、今度は administration 料を僕の書類をタイプした阿呆男に払えというのだ。administration とは何だと訊ねると、わずか1000RPだからとなだめるように言う。
馬鹿野郎、ジョーダン言っちゃいけねえぜ。おまえらは公務員であって、いまは公務の時間であって、これは国の仕事じゃねえか。いままであっちこっちまわってきたけれど、金を要求されたのはここがはじめてだぜ(じつはCianjurの役所で一度)、と、このような調子で吐き捨てるように言い、渡された書類をひったくって帰ってきた。そのままホテルで横になる。右脇腹のほかに左の脇腹までが痛い。といって、どこも具合悪いわけではなし、痛みのおさまってくれるのを大人しく寝て待つばかり。
夕食を食べていると、イリアン人のような黒い肌の肩幅の広い巨大な女性と、中国系のインテリ風の眼鏡ヤサ男の二人連れに声をかけられた。彼らはジャカルタで広告代理店の仕事をしている。女性はそのオーガナイザー、男の方はカメラマンで Merpatiエアラインの仕事を請け負い、ロンボック、スンバワと土地の文化の広告のため取材をしてきた。あすコモド島へドラゴンの取材に行くけれども、われわれはふたりだけで、すでに船はチャーターしたし、島のロッジも予約してある。であるから、あなたは何も払う必要がないからヒマだったら一緒に行かないか?という申し出なのである。
体調はわるいけれども、こういうチャンスを逃す手はない。即座に同意した。

11月23日(日) 晴のち曇 Komodo
6時、チャーターした車でホテル発。ここらへん面倒なことをいっさい気にしなくてよいのはありがたい。スンバワ東端の港Sapeまで約1時間半。Sapeよりモーター付き帆船に乗る。
ジャカルタの金持ちの娘アユはチャーターしたのが大型快速クルーザーだと思っていたらしく(そんなものがこの東インドネシアにあるわけはない)、船に乗り込むや、座るべき場所もないことに気落ちして貨物室の屋根に腰をおろし、「こんなことを知ったらジャカルタの両親はけっして私を旅行に出さないだろう」と、いかつい体格に似合わないことをおっしゃっている。この船には船室というものがなく、船室の形跡はあるのだが床をはっていない。われわれはこの船室の屋根上に干魚のようになってころがっていた。
約6時間でコモド島着。マルク州の時とちがって、モーター船だから風はなくとも時間内に着く。途中で釣り上げたカツオを新鮮な刺身にして食べるかとおもったら、夕食に出てきたのは、これ以上不可能なほどカリカリに揚げた切り身で喉もとおらず、新鮮もへちまもない。

11月24日(月) 晴 Bima
コモドに食べられるはずの健気な生け贄の子ヤギは、先発したわれわれを嬉々とした足取りで追い抜いていった。10分後には喉元を一突きされ、40分後には骨もなにも跡形もなく食べられてしまうとも知らず。コモドの動きは緩慢なうすのろバカだ、とおもうと、時々すばらしい足取りで逃げる。休日のつもりで来たけれどやけに疲れた。
帰りの船ではほとんどひっくり返って寝ていた。Sangean島の火山は煙をあげている。海上を雨前線がはしり、雨雲の連なりが遠くにつづく。この雨雲はやがて雨を降りつくしたらしく、あとに虹がかがやいていた。
ガイドの男は帰りの船でも巨大なバラクーダを釣り上げた。写真家のルーカスは日に焼けた真っ赤な顔をしてせわしなく動き回っている。アユは煮炊き場の床で航海中ずっと伏せっていた。


11月25日(火) 晴のち激しいスコール、のち曇 Bima
ルーカスは少女チックにコモド島の海岸でひろった小石に日付と3人の名前を書いておいていった。彼らのつぎの目的地はスンバ島。ジャカルタで立ち寄るところができたのはありがたい。
僕のほうは体調おもわしくなく、ようすをみるため近くの村 Wawo へ。穀倉群が村から離れた小高い丘の斜面にならぶのをコモドツアーの路上確認していた。


11月27日(木) 快晴 Bima

11月28日(金) 晴 Sambori

11月29日(土) 快晴 Bima
11時まで図面取り他雑事。聞き取りをしようにも老人はみな逃げてしまった。タバコをくれるなら話してやるよ。しかし、タバコは昨日全部この家にあげてしまってない。第一、こういう要求に応じるほど僕は善良でなく、かえってコッチがヘソをまげる。この家の若者たちが見つけてきてくれた(?)老人というのが誠意のない(でなければバカな男で)、
「部屋のなかのどこに寝るか?」
「どこでもいいさ」
「どうやって寝るか?」
「好き勝手だよ」
「この建物の材料は何の木だ?」
「そこらへんにある木さ。強けりゃ何でもいい」
方位名称を訊くと、これまたメチャクチャ。土地の方位名称がインドネシア語と相違するのかと思ってよくよく訊くと、太陽ののぼる方向がすでに現実とちがう。一瞬、ここは南半球で、南半球では磁針が南を指すのかと錯覚した。この男はこれでも大工という。こういう男があらわれると、他の人間は沈黙してしまうから、何を訊ねても答えの信憑性ははなはだ乏しい。すでに肉体的にまいっている。精神力も限界で、道具をしまい山をおりた。
11時下山。村人に教えられた近道を行く。途中で道を誤り、段々畑のなかを突き進む。段々畑といっても石垣は高く、藪が生いしげり、所々に柵をめぐらしてある。このなかを眼下に見える町めざして歩く。山の地形はコチラの思惑通りに出来上がっているわけでないから、直行のつもりが蛇行の繰り返しだ。約1時間半で下山。山の麓から、これまた水の干上がった田んぼの中をかなたの町めざして歩く。木も草もない。山のほか視界をさえぎる物なく、太陽は容赦なく照りつけ、あたかも砂漠を行くかのような疲労を感じた。
昨日通った Roka とは多分方向ちがいのこの町 Ncera から約1.5時間ベンフル(馬車)に激しく揺られて Tente にたどり着いた。道は石と穴だらけ。馬車はクッションがないから飛び上がるたびに低い木の天井に頭をぶつける。手を離せば確実にふり落とされる。これを耐えるにはある種の精神集中を強いられる。
午後3時半、ホテル着。ほとんど生ける屍のような状態であった。
この夜、日本人のタナカという男とホテルで会った。彼は日本政府の援助によって通信用の鉄塔を建てる作業の土地視察に来た。第三世界に住む金日本人は腐っているという。彼は立派に札ビラをばらまいて歩く。彼の奢りでビールを飲み、食事を食べた。残念ながらいつものような食欲がない。料金を払い、持ってきたお釣りのなかからバラバラとたくさんあった小銭をこの給仕に全部あたえた。男は一瞬驚いて僕の顔を見、それから嬉しそうにそれをしまった。
東大を出た人間がこんなところにいるとはもったいないとしきりに残念がる。うちの会社にとは言わないけれども、こうした会社にはいれば月50万の現地費がもらえる。予算は自分で好きなように使える。自分は別に悪いことをしているわけじゃなし、どんなところでも最高のホテルに泊まる。それがダメだというなら、他の人間をよこせばよいのである。自分はあちこちに40人くらい女がいる。酒と女にほとんど金をつかう。と嘯く彼は32歳、まだ独身。口髭をたくわえ、サウジで仕事をしていた時には現地人でとおったというが、ここでも顔つきは立派なトッペン面。
11月30日(日) 晴 Bima
午前中ひたすら休養。M宛の手紙を書く。
午後2時より7時まで Desa Maria にて調査の補足。先日天候悪く、写真撮影と部材名の聞き取りがのこる。Donggo や Sambori の人間とちがって、ここの人間は調査に理解あるのでたすかる。
タナカさんの一行は、本日バリ経由でウジュンパンダンへ向かうはずで、飛行場まで出向いた。チケットはすでに予約してあったのに、突然すべてキャンセルを強いられたのだと言って憤慨して(しかし大人しく)戻ってきた。なんでもSapeのフェリーの船長の奥さんが刺され(タナカ情報では警察署長の奥さん)、そのために遺族(?)一行が大挙して飛行機に乗り込むためだという。本当のことはわからない。日本だったら事情の説明くらいあるだろうに、飛行場ではほとんど知らされることがなかったらしい。
12月 1日(月) 晴 Ruteng
昨日出発できず、涙をのんだタナカさん一行に便乗して飛行場へ。ひさしぶりのTwin Otterで快適にフローレス島の Ruteng 着。スンバワ島東部の整備されたライステラスの景観と、フローレス島にはいってからの山また山、木に覆われたフローレス島は好対照だ。これがスンバだと山はすべてボタ山で木という木がなかった。
Manggarai の首都 Ruteng は山あいにひらけた清楚な町。町の中心には意外や中国商店が軒をならべてにぎわい、ひろびろとのどかに配備された役所、教会が四囲の山々に映えてうつくしい。冷涼な空気とよく整備された並木。道を歩くと通りすがる人びとが好奇の目であとを追う。連れも尋ねるべき知り合いもなく、ひさしぶりにまったくの異境にきたときに感じる緊張感。数ヶ月前、Ambon や Kei に着いたときの緊張、昨年はじめてスンバに降り立ったときの緊張に似る。
”Manggarai 人はフローレス島のなかでもパプア的形質のつよい縮毛、色黒、精悍にして文化的に劣る”という予備知識によって想像していた荒々しいところはなく(形質的にはロンボック島のSasakなどと大差ないだろう。パプア的風貌もいればマレー的なのもいる。縮毛はたしかに多く、色黒かな)、総じて慇懃、誠実で親切。
到着早々に荷物をかついで県庁をおとずれ、調査許可の申請。どこに行けば伝統住居をみれるか、というこちらの質問にたいして、Sospol も PdK も非常に親身になって捜してくれた。ただし、この Manggarai 人の誠実勤勉ぶりが仇になってか、数年前までまだあちこちで見られたという伝統住居は見る影もなく放棄された。日本人が竪穴住居を捨てたように、彼らも伝統を捨てつつある。社会や文化がたがいに無数の見えない糸で連合しあい、緊密な関係を織りなし得た極(クライマックス)にいわゆる伝統住居が位置づけられるとすれば、この安定関係がくずれ、社会も文化も関係を変化させつつある現在、住居が変化を余儀なくされるのは仕方のないことだ。住居のシンボルとしての意味が変わりつつあるのだ。空洞化したシンボルは早晩放棄されねばならない。意味をあたえること。空洞に内容を注入すること。宗教が意味される実体なく存在意義を勝ち得ているように。伝統の意味充填はたぶん宗教活動に似る。文化や歴史についての評価、啓蒙は喧しいほうがよい。太鼓をたたき、銅鑼をならす。
夕刻、町の郊外にある Kampung (Lama) Ruteng の見学に行く。徒歩40分。村中央の石壇、これを楕円形に囲む石敷きの広場と、そのまわりにめぐる家屋、山を背にした村への入口。階段をのぼると、広場の反対正面に巨大な2棟の円錐形慣習家屋が建ち、ここから平行しておなじく円錐形の一般家屋が広場石敷きの下にならぶ。村を訪れた者は、広場の奥にある馬降り石で馬を降り、環状石敷きに一定間隔で立てられた立石に馬をむすぶ。家々にはいるには、この石敷きより階段で1mほど下り、直接高床上にアプローチする。慣習家屋 Mbaru、Tunbong には儀礼のための楽器が吊り下げられ、村中の suku(クラン)から各1家族がここに住まう。屋根上には水牛の角をかたどった木彫がかざられる……こうした景観は石敷きをのぞいて今はなく、あたらしい慣習家屋を建設中であると誇らしげに村人は言うけれども、この建物の構造はまったく合理的なだけの木造で(合理的なはずの架構がところどころで破綻しているのはご愛敬というもの)、僕にとっては価値がない。価値は相対的だ。



12月 2日(火) 晴 Iteng
昨日県庁で得た情報によると、伝統家屋ののこるのは Waerebo という山あいの小村だけであり、ここに行くためには Ruteng で一日一度のバスをつかまえ、2時間ほどで Iteng という南海岸の村へ行き(ここは Kec. Satar Mese の中心)、ここからモーター船で2時間で Dintor という村(Desa Satar Lenda の中心)に着く。ここから木の根をつかむような急な道をのぼって、約4時間で Waerebo に到着するというもの。アンドレアス・アマンというここの県庁に勤める男の妻がこの村の出身だというので、彼から村人への紹介状をもらった。
朝8時にターミナルにて Iteng 行バスを待つ。あらわれたのはトラックで、この荷台にベンチをならべ、ビニール屋根を張り、客席としている。こういうトラックは何台も Ruteng の町中をはしりまわっていたから、ごく一般的な乗合バスということになる。ロンボック島のトラックよりは人間らしい扱いだ。
8時半、このトラックに乗り込む。客席は半分ほど客で埋まり、このままトラックはターミナルを後にした。快調。しかし、町外れまで疾走してUターンする。ふたたび町中をぐるぐるとまわり、やがて到着したのは出発したとおもったターミナルで、ここでまた客をつかまえ、町を縦横にはしり、客をひろってはターミナルにもどる。こうしてベンチに横一列5人の乗客が腰掛け、トラックの荷台が荷物と乗客でいっぱいになるとようやく町を出た。10時。山を越え、日本人が今年補修したという道を下って Iteng 着は12時50分。
親切な副市長の家で昼食を食べ、船を捜すも船はなく、Iteng 発は翌日となる。この夜は、旧知事の大邸宅(現在、彼はDPRになってジャカルタ在住)で寝た。
ウジュンパンダンからはこんだという石タイルを床に貼り、コンクリートの壁、ガラスの窓、波形トタンをはった屋根、各部屋についたマンディ場の洋式トイレと、こうした僻地に似つかわしくない豪壮なつくりの建物が、計画者本人がいなくなったためにこの土地相応に順応して、水の出ないトイレ(水は井戸からポンプで引き上げていた)、ところどころ板の剥がれた天井、電気のつかない電灯、閉まらないドア、等々。蚊の多い部屋のなかで、それでも蚊帳をはったベッドで快適に寝た。

12月 3日(水) 晴 Waerebo
朝7時、チャーターしたモーター船(15000RP)に客一人乗り、Iteng 発。波なく、おだやか。奇怪島 Pulau Ram めざして船はすすむ。目的の Dintor はこの海に突出した山の対岸にある。
約2時間で Dintor 着。ここで Desa Satar Lende の村長に挨拶。彼はこの村唯一の貴族階級の家柄で一般の村人に似ず、頭の回転がはやい。うわずった長嶋調のイントネーションで、こちらがなにか言いかけると、それに応じてたちどころに十倍くらいの話をはじめる。
Dintor に住むアンドレアス・アマンの義父エリトリウス・バオという初老の男と、Denge という途中の村にある小学校の先生、および村長の息子、ほか村人一人の計5人でにぎやかな道中。おまけに僕の荷物は一部この村人たちが肩代わりしてくれて、スンバワ島での孤軍奮闘をおもうと隔世の感。
Kampung Waerebo は Todo の王権の下にあった。かつて山間の僻村であった Waerebo は1967年、政令によって Kombo という海岸よりの新村へ移転をはじめる。1969年、それまで独立のDesaであったのを、Desa Satar Lende に併合。村人の多くは Kombo に住むが、農地が Waerebo にある関係で Waerebo の村にも家屋をもち、この2村を往復してくらす。
Kombo で村人に挨拶。ここから村まで3人の村人が案内をしてくれた。Denge の小学校まで、道はゆるやかな登りながら、小川のせせらぎを聞き、民家のあいだを歩く快適な道中。ところが、Denge をすぎる頃から道はまったくの藪の中で、Waerebo までの2時間半、村なく、激しい登りを繰り返す。カメラバッグだけを持っているのにとうとうギブアップで、このバッグも肩代わりしてもらった。
スンバワ島以来、連日の山行きで体がまいっている。すこし歩くと息がきれる。自虐的な気分でこの山歩きを繰り返す。とにかく、そこに山があるのだからしょうがない。
12月 4日(木) 晴のち曇 Waerebo
Waerebo には本来ひとつのスク=クラン(uku)uku modo しかない。しかし、村内で便宜上このスクはふたつの panga(半族)にわかれている。この半族がたがいに結婚相手の交換をしている。同一 panga 内での結婚は禁じられる。伝統的な居住形態は父系の共同住宅生活(拡大家族とはいえない)で、ひとつの家屋内にいくつかの家族がそれぞれの部屋と炉石をもつ。この家屋には半族のそれぞれが雑居可能で、調査家屋では同一家屋内(異なる panga 同士)での結婚例があった。この村での話によれば、家屋は共同生活ということのほかに、とくに畑仕事や相互扶助といった社会的な共同関係を果たすものではないらしい。アパートのようなものだけれども、居住者が共同でこの家屋を建設するという点ではよほど主体的なものだ。
調査家屋では、兄弟二人が同一家屋に部屋をもつが、この家の建設当時、未婚だった弟の一人は、のちに別の家屋建設のグループにくわわって、別の家屋にも部屋をもつ。
村には4棟の伝統的家屋がのこる。うち1棟が他の3棟に先行し、のこりの3棟は1938年に相前後して建設された。ほかに比較すべき家屋例がないから何とも言えないが、これら住居の入口回りは改変を受けていて(扉の開閉に蝶番を利用)本来の形を知るよしもない。写真撮影と家屋実測に丸一日ついやす。
12月 5日(金) 曇 Dintor
12時半まで実測と聞き取り。写真。13時15分、Waerebo 発。Kombo から来た連中はシナモンの出荷のため二人が早朝に山を下りていて、残るは一人。彼にカメラバッグを託し、僕は背負子をかつぐ。帰りは道を知っているから気が楽だ。約2時間で Dange の学校着。先日昼食をごちそうになった礼を言い、即出発。Kombo 着15時30分。約1時間休んだ後、Dintor に下りた。
村の連中は裏がなく純真だ。Donggo や Sambori での精神的消耗がないから気が楽。
Dintor に下りた途端、海辺で待ち構えていた男にボートの有無を訊ねる。シナモンをはこぶために夜ボートが出るという話だったからだが、この男の回答は予想に反した。
いくら?
2万5千RPで目的地まで案内するよ。
コノヤロー!
この夜は村長の家の大きなベッドの暑苦しい蚊帳のなかで、なんと4人の男と雑魚寝。ベッドを横に使って。暑いのに寝袋にもぐりこむ。

12月 6日(土) 晴のち雨 Ruteng
5時半、Dintor 発。Iteng でのパッサールに行く船に便乗。ところが、この船が Iteng に着くと、村長から言われたと1万5千RPを請求される。あの村長は何を考えているのやら。これはチャーターではないはずだとわけを話し、一般乗客と500RPをはらう。
Iteng 着は7時30分。市役所に挨拶をし、市中のKTP(Kartu Tanda Penduduk 住民証)をあつめて手際悪く数えはじめた彼らを尻目に9時半トラックに乗る。
12時 Ruteng 着。暗雲激しく雨。体だるく分解するような疲労をおぼえた。
食後、雨の中を Kam. Ruteng の見学。先日の話では Rumah Adat の棟飾りを木曜日に取り付け、儀礼をおこなうとのことだった。その成果を見に行くが、建物の小屋組は、扠首を中央に向けて整然と配した体育館のような構造で、形を復元するための最小材料、合理的な構造にすぎず調査の意味がない。村の実測も一人では巨大にすぎ(10m単位の測量だ)、疲れて気力もなく、おまけに雨。すごすごとホテルへもどる。
体熱く、下痢。過労。


12月 7日(日) 晴 Bajawa
移動日。8時10分、Ruteng 発。Ngada 県の首都 Bajawa 着14時。
バスに案内されたまま無愛想で貧しいロスメンのベッドで手紙を書いてすごす。ひたすら食べて体力を回復しようにも、Bajawa には満足な食堂がない。Ruteng の豊かにひらけた田園風景とくらべると、Bajawa はいかにも貧しい。
12月 8日(月) 晴のち曇 Bena
午前中に Sospol と PdK をまわり情報収集。PdKの所長はマンガライ人で大変に親切。誠意をもって面倒をみてくれる。彼のつけてくれた案内者をともなって、午後からKam. Bena という PdK による保存村落へ出発。
Bajawa からベモで約1時間、Walikeo という村へ。ここからさらに車道を徒歩約1時間でめざす Bena 到着。ここには3ヶ月6万RPという雀の涙ほどの支給をPdKからうける管理人がいて、村の維持を司っている。
村は中央に細長い広場をもち、その両側に建物を平行に配している。広場にはドルメン、メンヒルのほか、各スクの所有する Ngadhu という二又状木に屋根をかぶせた傘のお化け状建築と Bhaga という小型の家屋状建築がある。
家屋のほうは、竪板壁構造の箱形架構物に屋根をかけ、束柱で持ち上げた主屋部分に二重の前室がついた形式。前室部分の屋根は竹を交互に重ねたもので、構造も一定せず改変激しい。主屋の架構だけみると、Nias や Tanimbar Kei 島との類似が目につく。これらの保存修復された家屋群は、しかし、前室の庇をあげるために棟木の位置を前方にずらしたものが大部分で(したがって、主屋架構の対称性をやぶる)、本来の屋根形態をのこすものはわずか5棟しかない。5棟中2棟は、中央桁行の梁上に束をもち、1棟は中央梁上の左右に追扨首状2本の真束。他の2棟はこれら真束の類をいっさい持たない形式。村本来の形式は、bhaga の構造をみるかぎり、真束をもたないものであるらしい。ただし、他部分の状態のよい追扨首型家屋を実測することに決める。
すでに夕暮れ。ドルメン、メンヒル、先の尖った立柱石などのならぶ中央広場のそこここに十字架をつけたコンクリート造の墓が横たわっていて、全体の緊張を損なう。土着のアニミズムや巨石信仰がよくて、現在の状況下でもこれを維持せねばならないなどというつもりはない。しかし、多くの人間たちが手に塩をかけてつくりあげてきた歴史環境を現代の安易簡便なキッチュ製品によって破壊してゆく無神経さに苛立つのである。タバコの空き箱をそこかしこに投げ捨てる無神経さでもって文化を投げ出しているのだ。
12月 9日(火) 曇 Bena
トア・メオ(トアは本人の名、メオは母の名)の家屋実測。Bajawa 文化の他のフローレス文化との大きな相違は母系であるということだ。人物の呼称も子どもの名前で親を呼ぶのとちがって、母親名を冠する。
このンガダ Ngada 県には VOC のあらわれた今世紀はじめ以来、4つの治政権(うちふたつはのちに合併して今日3つ)がある。Ngada、Riung、Nage、Keo(のち合併して Nagekeo)で、それぞれが異なるアダット法により維持される。
家屋の茅葺きは、他のインドネシアのパネル式ではなくて、横桟を垂木に固定しておいて、これにチガヤを折り込んでゆくだけの形式。折り返されたチガヤの先が屋内で毛羽立って、スス、ホコリを付着し、小屋組の実測はこの毛羽だった茅先をかきわけ、ススとホコリを浴びながらおこなう。それでも詳細までは見えない。見えないところは Bhaga の構造から類推する。
夕方、近くの温泉でマンディ。川の渓流の一部に湯が湧き出て、小さいけれども久しぶりに湯につかった。人っ子ひとりいない文字通りのジャングル風呂は、太陽もささず、薄気味悪い。夜は蛇がでるという。
12月10日(水) 曇、雨 Bajawa
昼食抜き。昼過ぎまで実測をつづける。Ngadhu、Bhaga と家屋 Sa'o。
家屋 Sa'o には格があり、はじめから上等の家屋を建てることはゆるされない。
はじめ、Sa'o Keka という竹の粗末な家を建てる。つぎに再築するとき、Aze Paba という板壁の家屋。つぎに Wati Segere という彫刻のすこしあるもの。最後に、Weti Masa という全体に彫刻をゆるされた家屋で、これは Sa'o Meze(大きな家)と呼ばれる。
Sa'o Meze には一般人の住む Sa'o Kaka と、クランの首長クラスの住む Saka Puu / Lobo がある。棟の上に人物像を載せた Saka Lobo(Lobo は先端の意。男の始祖をあらわす)と小型家屋を載せた Saka Puu(Puu は元の意。女の始祖をあらわす)がある。
夕方5時半、運よく通りかかったトラックに乗り、Bajawa へ。約1時間40分。
12月11日(木) 激しいスコール Boawae
午前中PdKへ行き、調査打合せ。Riung の王家に属するWangka での調査は So'a でパッサールのある日曜日(車の往来が多くある)となる。それまで Boawae の調査。PdKのスタッフのひとりに Boawae の出身者がおり、彼を案内役につけてくれた。Boawae には王の家と一般の民家がまだのこるという彼の言を信じて。
Bajawa 発14:40分。16:03 Boawae 着。Ende ― Bajawa を往復する小型バスでこれは快適。
到着早々 Boawae の王家というのを見に行く。カンポンの中央に二叉状柱 Peo が立ち、奥手に王の家。セン(波板トタン)葺のほか変更はないということだったが、架構はすべて近年のもので、木造の骨組をみると味もそっけもない。大規模だから体育館のような印象を受ける。伝統的な建物は現代のものの2~3倍も木材がかかるというのは本当だろう。したがって、写真も撮らず、親切な王家の人たちに聞き取りだけして帰宅。
Pdkスタッフの家で手厚いもてなしをうける。鶏肉のスープとご飯、おかずが野菜だけでないのはひさしぶり。

12月12日(金) 曇のち晴 Tutubhada
文句なく過激な一日。
Boawae の王家で失望したので、近くの Wolowea という村まで伝統的住居をしらべに行くという比較的軽い気持ちで家を後にした。
Wolowea は Bajawa から Ende へ向かう道の途中にある。したがって、この路線をはしるバスをつかまえればよいわけだが、これを待つと9時になる。われわれは(Pdkのスタッフと僕)6時40分にトラックをつかまえ、Rega という地点で降り、ここから Wolowea まで約1時間を歩いた。
同行のPdK氏は家のちかくということもあって、コウモリ傘ひとつという軽装。Wolowea の村長宅を訪れ、Rumah Adat の有無を訊ねるとすでに壊したということで、われわれはそのまま街道をそれ、Weaau に向かう。
軽いハイキングコースだけれども、荷物をひとりでかついでいるからかなりの重労働だ。
約1時間で Weaau 着。村の入口にブリンギンの大木があり、これが柵でかこってあって、木の下にマリアの像を祀ってあるのが可笑しい。キリスト教のアニミズム化だ。
しかし、伝統住居のほうは柱をのこすのみで跡形もなく、案内してくれたPdK氏は、自分がここで先生をしていたときには Rumah Adat があったのに(何だ、そんなことか)とぼやいている。すくなくとも、この村はみるからに古い村を移転してできた新村で、たとえ古い家があったにせよ、変更が多くて実測は難しいだろう。せっかく来た記念に、穀倉の写真だけおさめてもとの道を引き返す。
Wolowea まで1時間。ここまでできょうはもう3時間歩いたことになる。
Wolowea の小学校で情報を得る。それによれば、Danga から約3時間歩いた山中の Kam. Tutubhada というところに、4軒の Rumah Adat がいまもたしかにのこっている。これは足繁く村にかよう先生の言だから間違いはないだろう。
このときに Danga がどこにあるのか僕は知らなかったのだ。迂闊にも(先ほど苦労の甲斐なく目的の家屋が見つからなかったのにすこし腹立っていたから)、デハ Tutubhada へユキマショウ、と言ってしまった。Danga がどこにあるか確認しておれば、こんな愚挙はせずに大人しく Bajawa に引き返していたろうに。
悪運はついているもので、ほどなく Danga 行きのトラックが来てしまった。であるから、いっそう軽い気分だったのだ。
Wolowea 発は11時10分。トラックは野をこえ山をこえ、ひた走る。はじめ空席だらけだった荷台のベンチも、そのうち「一列5人だよ、つめてね」といった調子でいっぱいになってしまった。
大きな石と穴だらけの道を右に左に激しく揺られながら、いつしかわれわれはフローレス島中部(南部にちかい)山地から北海岸まで降りてしまった。
Danga 着は13時45分。Wolowea から2時間半だ。ここに住むPdK氏の親戚宅で休憩。
Danga には、戦争中、日本軍の基地があった。Surabaya Dua (第二のスラバヤ)と命名し、日本軍は、各地からあつめたインドネシア人を強制労働に使って、ここに飛行場を建設、無数の死者を出したという。
No.9(ノモル・スンビラン)といって、彼ら現地人を震え上がらせたのは9号(?)の棒で、これを使っていうことをきかない者をひっぱたく。叩かれた者は気絶する。気絶すると水をかけ、起き上がるとまた叩いた。とくに悪辣だったのは韓国人だった(日本のために戦争に引きずりだされているのだからしようがない)。
あるとき、先生をしていた父(この話をしてくれた人物の)のもとへ韓国人の兵隊が来て、そっと耳打ちした。
あした、子どもを連れて丘の上へ逃げろ。町が爆撃されるニュースをラジオで聞いた。このことは誰にも言うな。
翌日、父が家族を連れて避難すると、飛行機が大挙してあらわれ、町を爆撃した。
その後のこと、ケンペイ隊がやってきてこの韓国人をとらえた。スパイだというので、彼は例のNo.9で打ちのめされた。骨砕け、肉切れ、彼は死んだ。
また、あるとき日本軍のブンケン(?)が馬に乗り、したたかに酔って家にやってきた。
オンナはいるか?
彼の母親は部屋の隅に逃げた。男は母親を見つけ、胸ぐらをつかんで引きずりだした。子どもの彼はどうしていいかわからない。おろおろしていると、、、(意味不明)、、、バカヤローと叫び、(別の)男は手にした銃を発砲した。彼は目の前で人が死ぬところをはじめて見た。ケンペイ隊が来て死体を片付け、これを燃やして灰を壺におさめ、どこかへ送った。
例によって、この Surabaya Dua のちかくに日本軍は洞窟を掘っていて、なかは迷路のように枝分かれし、一定の者しかはいることができなかった。用件のある村人たちは、この洞窟の途中まではいることを許されたが、そこでいつも引き返した。穴を掘った者たちは殺されたという。
この洞窟にいまも日本軍ののこした多くの武器、弾薬などがあると考えられているけれども、村人たちは恐れて近寄らない。道に迷い、あるいは蛇にあうことを恐れている。
この Danga を出発したのが16時すぎ。同行者はPdK氏のほかに、この Danga の Pemilik Kebudayaan 氏をいれて計3名。荷物の半分を彼らが肩代わりしてくれたので幾分楽。というものの、きょうは歩くことにすでに飽きている。
3度も川を渡り(降雨で増水すると、水のおさまるまでお手上げという。越すに越されぬ大井川だ)、峠の麓の村 Malawona 到着はすでに夕闇せまる18時半。
小学校の教室(ふつうの高床の部屋にベンチと机が8個ならんでいるだけ)でしばし休憩ののち、月明かりの照る断崖絶壁の岩山を這うようにのぼる。見おろせば右も左も断崖で、遠くを見ると目がまわるから懐中電灯に照らされた足元だけを見て歩く。
約1.5時間、3人とも息絶え絶えになって山上の Tutubhada に着いた。この日、合計7時間歩いた。
村長をたたき起こし、ありついた食事はお馴染みのケロールの葉のスープとご飯。とにかく疲れて、寝袋にくるまり早々に寝た。
昨日のスコール、昨晩の激しい雨、日中の曇りがちな天候、とうとう雨期につかまったらしい。そういえば、Bena からの帰りに見た美しい夕焼けは雨期直前に見せる最後の燐光。

12月13日(土) 曇のち雨 Bajawa
Tutubhada では伝統が生きている。
Rumah Adat のひとつはいましも屋根を葺き終えたばかりだし、他のひとつは小舞を固定し終わった屋根の骨組みが茅葺きを待つばかりになっている。伝統が生きているという事態は、反対から言うと、慣習家屋が何棟かあっても本当に古いものはないということだ。
細長く家の並列する村の一端に位置した棟の高い首長の家は1980年代の建設。炉まわりなどの一部に古材を再利用しているものの、筋交いを多用した現代の骨組みで、ディテールが悪い。1973年に台風があり、このとき多くの家屋が倒壊したらしい。それ以来、構造の補強に斜材を利用するようになったという。台風以前の家屋(手直しをうけていない)は一棟あり、1960年代の建設。これとて実測するにはあたらしすぎる。ここでの実測調査は見合わせ。
家屋は棟上に船型の茅積をもつ。この茅積のなかに立ちあがる2本のチョンマゲは棟持柱の延長で、この柱の先端をチガヤの葉先を上にして包み、ijuk の紐を巻きつけたもの。船は茅束を7段に積み上げてつくる。
この船型は、この村では bele jata (鷹の翼)、鷹の羽をひろげた形と考えられている。また、この部分を mango dadho (勇気ある男、腰掛ける)と呼び、この村の伝承とむすびついている。
そのむかし、この村の属する suku rawe と隣の suku rendu との戦いの際、rawe はスラウェシ島の Goa 王国に援軍をたのんだ。このとき、Goa から来た男はハトを従えてきて、その足に火をむすびつけ、相手の村に飛ばした。ハトは家々の棟にとまり、家はすべて燃えた。その後から村を襲撃して勝利をおさめた。
家屋の入口(縁側)に男女の姿を彫った木彫(祖先像)がおかれる。以前これは全裸であったが、イエスの教えに相応しくないというので現在では着衣像に置きかえられている。
家屋は主要な3つの空間からなる。簡単な接客と日常の腰掛け空間 Padha、男の空間 Teda、女の起居空間 Tolo である。Tolo には入口右に炉があり、この炉柱 duke の脚部には Lipi とよばれる段状の小空間があって、ここに儀礼のあるつど、ご飯、肉、ロンタール酒、シリー・ピナンなどを祖先にささげる。祖先霊は柱の上部にいて、彼らが食事を Lipi に捧げ、祖先をよぶと、柱をつたわっておりてくるものと考えられている。
家屋をささえる2本の棟木は Teda と Tolo の境の壁梁上に立てられている。この2本の棟持柱 madu には、家屋の建設時にロンタールの葉をまるめた器 sorelobe のなかにご飯、豚や水牛などの肉、ロンタール酒をいれて括り付ける。
家屋床をささえる9本の束柱のうち、中央右よりの柱は聖柱 poso puu である。これら束柱には nara の木、壁板は wuwu、他の小屋組はすべてロンタールの幹を使用する。屋根はチガヤの葉先を外側に向けて折り返しただけのもので、20年ちかくもつ。
Peo (二叉柱)の建設は、儀礼をおこない、好ましい形の hebu の木を見つけるところからはじまる。これが首尾よく見つかると、木を掘り起こし、根を3本(4本?)のこして切る。切ったのこりの根、木などは、その場で燃やす。万一、燃え残しがあると、そこから災いをおこすと考えられている。柱のほうは柔らかい布でくるみ、根先を先頭にして、先端と後尾に一人ずつの男が見張りとして腰掛け、一緒に担ぎあげて村まで急ぎはこぶ。
朝食は白米にトウガラシ。10時まで写真を撮り下山。
Danga まで昨日とちがう道をとおり2.5時間。昨日出発前に訪れた家でふたたび休憩。
Danga でパッサール帰りのトラックをつかまえ、13時40分、Danga 発。約3時間で Bajawa 着と目算していたら大違いで、Boawae 到着は4時間後ですでに17時30分。
ここからが僕の運命の尋常ならざるところで、おりからのはげしい雨。トラックには、市場帰りの客がブタ、ヤギ、ニワトリから野菜、米俵などなどを積み込んでいる。これらの積み荷をはこぶため、Boawae からトラックは突然脇道へそれ、Boawae の市場へ向かう本通りからはるかにはずれたところで、手ぐすねをひいていたかのようにパンクの修理をはじめる。
こんなことは本通りでしてくれれば別の車を探せるものを、いくらか人通りのないところへ運んでおいておこなうのがここのやり口だ。クソ。
約30分、ようやく道をもどりはじめた途端、坂道でスリップし、あわや側溝にはまるところでまた停車。タイヤの交換をはじめる。
このままでは Bajawa 着はいつになるかわからぬ。夕食にもありつけない恐れがある。オカズ抜きのメシを食ってきた後だから、おいしい食事を食べられぬのはこまる。今後の戦意にかかわる。乗客無視のあてどないトラック修理にはロンボック島で泣かされている。だから、人情はもうない。
あっさりこのトラックを捨て、本道を目指して歩く。雨。すでに夜。荷物を背負ったまま、この沿道に立って、来るか来ないかわからない車を待つこと約15分で、バスがあらわれたときには、おもわずはげしい感激にうちふるえた。積荷をあちこちでおろしてゆく必要はない。これで夕食にありつける。
20時半、Bajawa 到着。3日間をほとんど無駄に引きずり回されただけで終わった。疲労だけが重くのこった。





12月14日(日) 晴 Wangka
この数日をどう表現したらよいかわからない。これを書いているのはじつは12月17日、Bajawa のロスメンでだから、この日の朝、食事に出かけようとしているところで部屋の戸がノックされ、悪魔が微笑んであらわれた、という情況がまさに当を得ている。
Boawae 出発前の PdK 所長との打合せでは、日曜日に So'a でパッサールがあり、Wangka 途上へ向かうトラックがある。したがって、土曜の午後、So'a へ向かえるように、それまで Boawae 周辺でかるく調査してこようというものだった。Boawae でのかるい調査の顛末はすでに記したとおりであるから、土曜の午後に Bajawa へ戻れなかった以上、Wangka 行きはもうなくなり、きょうはひとりで So'a へ出かけるつもりであった。So'a まではトラックの便がある。
この朝、ドアをノックした悪魔の主は PdK の所長に紹介された案内役のアドリアヌス・アリ、Riung の男。Wangka までの同行を買って出た初老の先生だった。彼の言うには、昨日はずっと僕を捜した。きょう Wangka 方面へ向かうトラックがあるから、これから Wangka へ行くだろう?と。
Wangaka 行きをすでに切り捨てていた僕は、いったん躊躇した。トラックを降りてからまだ16kmあるという話にうんざりした。しかし、相手の方に熱心にされて、引き下がってはおれない。いつのまにか荷物をまとめ、彼とふたりで出発する手はずとなってしまった。悪魔に魅入られたわけだ。
彼は順を追って、つぎつぎと約束を反故してゆく。いまからおもうと、老獪な手口に引っかかったと言うべきだ。所長との打合せでは、この男は Wangka へ同行したあと、いったん So'a へ引き返し、僕を So'a のしかるべき人物に引き渡す。トラックを降りる Poma から Wangka までは荷物を運ぶ者を捜そう。Wangka からの帰路はトラックがないから(So'a でパッサールのある日曜と翌月曜のみだ)、Wangka の村長にたのんで、われわれは馬に乗って帰ろう。というような具合であったわけだ。
雨期にはいると、5ヶ月間 Riung、Wangka は Bajawa との交通を断たれる。先日来の雨で、雨期入りと思っていたのに、きょうは晴れてしまった。悪いことはかさなる。
Bajawa 発10時。トラックは So'a の市場まで約2時間。市場には竹の仮設的建物が並んでいて、ここに売り手は露天をかまえる。
まだ閑散とした市場で降りる。村で食べるように干魚を買っていこうか、という僕の申し出を、彼はそんなもの重くなるだけだからおよしなさい、とたしなめる。しかし、タバコを2カートン買っていこうと言ったのには驚いた。約1万RPする。村への土産には高価すぎる。1カートン買う。
So'a から Poma まではイネ科植物(カヤ、ススキの類)の大群生のなかをトラックで40分。午後1時40分、Poma の市場(といっても何もない)でトラックを降り、歩きはじめる。
So'a から同行してきた Wangka の村人ひとりをつかまえ、アドリアヌスはどでかい自分のスーツケースを持たせている。僕の方は、自分の荷物を自分ではこぶしかない。
峠をのぼり、ここから緩傾斜の山道を約1時間。さらに野をこえ山をこえ、果てしなく長い道のりを歩く。これで Boawae の二の舞だったらタダじゃおかない、と呪いの言葉をはきながら。
イネ科植物の群生は焼畑耕作の痕だろう。いまは牧草地として水牛や馬の飼育につかっているらしい。十種類ちかくにのぼる相似した草のなかから、屋根葺きには Alang-alang(チガヤ)だけを選んで使う。
Wangka の村長宅にたどりついたのはすでに暗い7時ちかくで、結局20kgからの荷物をひとりで背負い、5時間歩かされたことになる。
村長宅でモッケイ(tuak)を飲もうというので、Ya と答えると、2壜買うと400RPだと金の負担を強いられた。
Rumah Adat は3棟のこるというので、まずは安心して寝た。身体中痛い。

12月15日(月) 曇 Wangka
村 Desa に3棟(手近に2棟)Rumah Adat がのこるというので、Kam. Waezea というところにあるものから見学に行く。これは出作り小屋程度の大きさしかなく、しかも、あたらしい材料はすべて竹。勇壮な家屋形式を想像していた僕は、村長の言う Rumah Adat という言葉をにわかには信じられなかった。
もう一棟のKam. Panrowan にあるものはもっと大きい。しかし、これとてもインドネシアの建築形式のどのプロトタイプでもない。多分、この村だけの形式であって、このために5時間の難行を経たのかとおもうと腹立たしい。造作も雑。しかし、儀礼や木の組み方、住まい方などは伝統的な形式が確立しているらしくて、なかなか細かい。約5時間かかって写真、実測、聞き取りを終える。
落胆し、憤慨しているこちらの心中を知らず、PdK のアリ氏と村長は、聞き取りのためにあす長老を呼んで酒盛りをしようと打ち合わせている。酒盛りは勝手だ。聞き取りといったって、もう聞くべきこともない。あすはいち早く帰るまでだ、と僕は僕で考えていたのだけれど、この宴会の費用を当然のことのように僕にもとめる彼らの伝統とは何なのか。
ニワトリ2羽4500RP、米4kg1200RP、モッケイ2壜400RP。夜の食事にこのニワトリのスープが出た。内臓ばかりで肉はない。
Riung の王家の領域は相異なる8つの言語圏にわけられる。この8つは文化的にもそれぞれ独自のもので、Wangka の住居形式は Wangka だけのものである。Wangka で多数をしめる Nbare Pau というクランは後インドに発し、スラウェシ島のウジュンパンダン経由でこの地にやって来たと伝える。
12月16日(火) 晴 So'a
長老たちを呼ぶというので待っていると、あらわれたのは昨日の調査家屋の家主ひとり。建築儀礼の聞き取りは、結局、村長ひとりが答える。この村長は頭の回転がはやい(すぎる)のか、ひとりで喋り続ける。しかも、彼の話しは混乱をきわめ、理解不能になる。空虚な言葉の洪水。
村長が手配してくれたのは馬ではなく、たまたま村にいた教会のジープ。ただし、彼の話しとちがうのは、このジープは Molu という峠の上の村までしか行かなくて、Bajawa 行きは夜になるという。PdK のアリは所長との約束を反故にして、So'a までつきそうことなく Wangka から直接 Riung に帰る。Wangka に残って、僕の金で買ったモッケイを飲んでいた。無責任男。
Molu から先、案内してくれたのは、たまたまジープに乗り合わせた中学生の女の子で、彼女がいなければ So'a 到着は覚束なかった。こっちとしては本来一人旅だから文句は言えないが、こうまでして Wangka へ行き、金と時間を無駄に使うことはなかった。
Molu から徒歩1時間で Poma の市場着。市場といっても、市場のない日には竹屋根のガランドウ建物が一棟あるきりで閑散としている。ここで約1.5時間、待てどもトラックはあらわれず、それどころか人間すらもとおらない。さらに約1.5時間歩いて、So'a に新設中の飛行場へ運ぶ岩石を河原から運搬するトラックに便乗して無事 So'a へ着いた。
So'a の副市長は誠意にとぼしい遊び人で、僕をしたがえ、村長宅に情報を聞きに行く称して家を出たまま、この家でブリッジをはじめる。要するに、これが目的だったらしい。僕の方は、早々に帰って(情報もかんばしいものではなかったから)寝た。
12月17日(水) 晴 Bajawa
So'a の中心は山のなかにある4つの古村からなる。しかし、このどれにもまともな慣習家屋はなく、聞き取りのほうも気力がうせて満足に出来なかった。
家屋の基本構造は Bena のものとまったく同じ。外壁の彫刻に赤い粘土を使った着色をしていることが目立った特色。この着色のために特別な儀礼があると聞いた。家屋はとくにその内部で傷みがはげしく、殺伐とした印象をあたえる。
午後、Bajawa 行きのトラックに乗り、早々に帰る。
ところが、何事もおとなしく済まないのが運命らしく、このトラックは約1時間ほど走った山中で異音を発して止まり、修理をはじめる始末。これをおとなしく待って、いままでどれだけの時間を無駄にしてきたか。運よく通りかかったトラックをつかまえ、あっさり乗り換えた。情に棹させば流される。

12月18日(木) 晴 Koli
Nagekeo 型の家屋をもとめ、Mauponggo へ。
朝、PdK を訪れる。所長のニコ氏は Ende 出張で不在。こうなると所員の実質的な協力は得られない。所員たちはいつものように協力的、ただし、これは口だけの話で、具体的な方策となるともう彼らの責任の外にある。儀礼的な挨拶だけして早々に PdK を後にし、県庁へ向かう。PdK の協力がダメとなると、頼りになるのは自分だけで、そうなると書類上の手続きだけは完璧に済ませておかねばならない。Sospol からあたらしく書類を発行してもらう。
午後1時、Bajawa 発。約3時間で Mauponggo 着。軽い気持ちでここまで出かけてきたけれども、市長の話を聞くと、ここでも古い家はダメらしい。
Desa Ululoga の家はすでに半分石造にあらためられた。Udiworowatu のものは昨年焼失した。Kam. Witu というところにヤシの葉葺きの丈高い慣習家屋が残るらしい。20日(土曜日)に市場へ行くモーター船があるからこれに乗ればよい、という話だが、それまで待ってはいられない。
悪運だけは強く、ここに市長宅のまえを Desa Witu Romba Ua の者が通りかかり、彼をつかまえ、海岸沿いを徒歩で行くという手筈になってしまった。すでに夕方5時、西方に暗雲ひろがり、昼食も食べていないというのに、また歩かされるのだ。村までは約4時間、道は平坦という話し(ダケ)。
実際には、急な峠をこえ、川をわたり、さらにしばらく歩いたところで(約2時間)大雨の直撃をうける。暗闇の中をずぶ濡れになりながら近くの小学校に駆け込む。寝袋も何もかも濡れた。気持ち悪いのを我慢し、この寝袋におさまって夜をあかした。
12月19日(金) 晴 Witu Romba Ua
約2時間、さらに峠をこえ、海岸の断崖をあやうくわたり、岩だらけの海岸線を歩く。昨夜、懐中電灯の光だけをたよりに、満潮時のこの難路をどうやって切り抜けることができただろう。雨がなければあやういところ。
Desa の村長宅に荷物を置き、約30分、山の中腹の村 Kam. Witu 着。斜面に沿って、Peo、Madhu がならび、一棟の丈高い家屋がある。Peo、Madhu 上には、人間の思考を象徴するという鳥の彫刻がささる。
Kepala Adat (アダット長)の所有するこの家屋は、Lio 族のものと似て、残念ながら Nagekeo 型ではなかった。Kepala Adat はアダットのことをよく話してくれるけれども、どこまでがアダットでどこまでが彼自身の創作かわからぬ。誇大妄想的なところあり。この家は、村でもっとも早く建てられたもので、すでに300年たつという彼の説明をかしこまって聞く。
小屋組に辻褄のあわないところ多く、何度か改修を受けているだろう。棟木は最近変えた。部材を勝手に切り張りして改造をくわえているので大雑把な印象をうける。礎石建ての柱は戦後の大工の仕事で、以前は掘立だったという。すべての柱を礎石建てにすることはゆるされず、いまも1本のみ掘立柱がのこる。しかし、こういう決まりがアダットのはずはなく、彼の創作だろう。束柱は床下までで、礎石建てのうえ、縦横に貫を通したもの。
半日で図面を採り終えることができず、最後は give up したかたち。中途半端な調査だった。家屋が本来のものでないので、気乗りもしなかった。
疲労と真っ黒になったタオルがのこった。悪夢の1週間。無宗教(インドネシア流に言えば共産主義)の僕もキリスト様の慈悲にすがるよりない。アーメン。

12月20日(土) 晴のち曇のち晴 Ende
Witu 発10時45分、約4時間の航海で Ende 着。Pulau Ende(エンデ島)をすぎる頃から一陣の寒気おしよせ、風強く、波高く、暗雲広がり、おだやかな航海は一転して砕ける波をかぶりながらのただならぬ航海になった。この暗雲も Ende 入港時には去り、ふたたび強烈な太陽に照らされる。
ここ数週間というもの疲弊し、消耗していたため、すこしでもよい宿をさがして歩く。
Ende は Ruteng、Bajawa とちがって、都市が郊外にスプロールしており、歩き回るには広すぎる。通過する道の名を掲げたベモが縦横に走り回り、客の注文を聞いて道をアレンジする。この仕事が車掌の役割で、バンドンのベモとくらべて車掌の役割はずっと重い。いわば乗合タクシーで、小都市だけにどんな場所でもくまなく送り届ける。料金は100RPでどこの都市とも変わらず。

12月21日(日) 晴 Ende
完全休養日。手紙を書き、エアコンのきいた部屋でベッドに寝転がってすごす。果物と冷水の飲み過ぎで下痢。食欲もなし。

12月22日(月) 晴 Ende
10時、PdKへ情報あつめ。PdKも所長の人柄によっていろいろだ。Ngada では書類の提示ももとめず、非常に歓待された。ここではまず、私たちの情報がどういうかたちで発表されるかをあきらかにしてもらいたい、と開口一番。いろいろ説明しても猜疑心が解けぬらしく、LIPI の書類を見せるとようやく安堵したかのようだ。
ここ Lio では東大のNさんと都立大のSさんがそれぞれ3~2年ずつ調査をしているけれど、彼らふたりはPdKに顔を出さなかったらしい。いらぬ官僚主義に巻き込まれるのはゴメンということか。僕の場合、短期間の調査だから官僚主義もいいことがある。
PdK のあと、Sospol で書類をもらい、いざ出発と勢い込んでバス停に行き、八方手を尽くしてバスを捜したけれども、とうとうつかまらなかった。しだいに体力の減退を感じ、ふたたび Wisma にもどって一日休養。あす早朝に出発できるよう、手配だけした。
詰め込めるだけ詰めるバスというのは人権無視のようだけれど、定員だからあすまで待てと言われるよりはまし。
夕方嘔吐。コーヒーの飲みすぎか。夕食は食べられず。


12月23日(火) 晴のち曇 Moni
Wolowaru 行きのバスは7時前に定員となり出発してしまった。クリスマス休暇で帰省客多く、どのバスも満員だ。仕方なく Maumere 行きのバスに乗る。料金は Wolowaru まで1100RPのところ3000RPとられる。このバスは7時20分にターミナルを出発、途中バスオーナーの事務所へ寄り、定員のチェック。太った大柄の中国人は乗客名簿を見て、座席の番号と乗客名が一致しないデタラメさを車掌のフローレス人に向かってなじる。小学校の混乱が支配した(事実、小学校も出ていない人間だって多いのだから)現地人相手の、しかもバス停の混乱のなかで、小学校の班長さんに飛行機のような乗客名簿をこの中国人は期待しているのだ。車掌は先生の前に出たバカな小学生のように萎縮し、何一つ答えることができない。中国人はこれにますます腹をたて、とうとう手を振り上げ彼の頭を叩く。オマエ、名簿というのは何のためにあるんだ。この間、他の乗客たちはまったく無視されたままだ。オーナーは乗客を降ろし、座席を入れ替え、誤って乗った乗客3人を別のバスに移し替え、2人分の空席に乗るべき乗客をターミナルから捜してきて座らせる。約30分がこうして過ぎ、バスは定員の乗客を乗せて事務所を出発する。ところが、町はずれまで出たところで、待っていた客2名をさっそく拾う。まさにキツネとタヌキの化かしあいで、これらの客については彼らの懐に金がはいるという仕組みなのだ。
Wolowaru まで約3時間。役所で書類を書いてもらうのに2時間もかかり、さらに Kam.Koanara というPdK(教育文化省)によるお墨付きをもらっている村のある Moni に戻るのにトラックを待ち、Koanara 到着は4時。しかし、Koanara にあるのは古い家一棟。たしかに出来はよいが、疲弊したように建ち並ぶセン葺きの小さな地床家屋群のなかで余命を送るといったありさまだ。

12月24日(水) 曇のち夕方スコール Moni
Koanara に残る唯一の伝統家屋の実測。家屋内の豊かなレリーフ。完成された構成。儀礼のための種々の装置。屋根の最上層にのぼるパフォーマンスで家主の理解を得る。こうした大屋根の Sao Ria(大きな家)に住むのはスク長(mosalaki と称する)の家族で、長男が代々血統を維持する。
家屋内に置かれた数々の石片のひとつひとつに儀礼の際には食事を供える。供えるべき石の多いこと。家屋の奥二隅、mangu と称する棟持柱の下、lena という1階張り出しの棚部分の隅、tenda-teo という棟近くのもやから吊られた供物用カゴの中の石(この石を watu wula leja 月と太陽の石の意味、wula-leja は日月神)。どこから入手したのか巨大な象牙が4本、家の隅に家宝として置かれている。
家主は旧村長で、現在はPdK公認の文化財管理者。村長宅を早朝に出たため朝食にありつけなかったが、この家で昼食を出してくれた。
夜、巨石文化名残りの石積み石柱群のなかで、セメントでかためた十字架型の近代風墓に蝋燭をともしていた。あすはクリスマス。
12月25日(木) 晴 Moni
村長宅は朝から教会に出かける。きょうは朝食にありついて体調十分。家屋実測の続き。まる一日家にこもりきりでクリスマスは終わる。東京の喧噪を思い出してハラリ。
12月26日(金) 快晴 Moni
調査家屋3日目。村長のいる Kam.Watugana にはかつて Sao Ria があったというが、これは現在、柱のみ残る。この柱は香木で、100年経っても実用に耐える。Watugana の Bhaku は非常に多くのレリーフをもつ。ところが、このレリーフは白、赤、青とペンキを塗り、屋根はセンに代えられている。
12月27日(土) Jopu
午前中、Bhaku という納骨のための建物と Kebo 穀倉の実測。穀倉の屋根はすでにセン葺きで、約3時間ですべての作業を終える。就任7ヶ月目の元気で親切な新村長に送られ、12時すぎ、トラックでWolowaru着。市長宅で荷物の補充後、徒歩 Jopu へ。約1時間。道よし。ハロー・ミステールという子供の大群。ツーリス、ツーリスと呼ばれるたびに腹が立つ。
Jopu の村長も新任7ヶ月で、新任村長は概して親切。村長の案内で Desa Jopu 内の4つの Kampung をまわる。
Kam.Jopu には2棟の Sao Hubu Bewa(棟のあがった家)がある。形式は Moni のものと同じで造作は Moni より劣る。しかし、Moni ではゴミ溜めの真珠だったアダット家は Jopu では石積み、Bhaku、Kebo、他の古い家屋群のなかにあってマズマズの環境。
Kam.Nuapaji には同形式でやや小ぶりの Sao。
Jopu の起源地である Kam.Rangase には3棟の Sao Hubu Bewa。2棟はやや小ぶりで仕上げ劣る。残る1棟は Moni 形式とは入口部に変化があり、正面 Tenda の中央がわかれて、ここに階段(3段)がつき、この階段下に翼(船)をかたどった装飾板(扉下に付くのと同様の)がおかれる。
Kam.Wolobheto のものはこの Jopu 型。すでに150年近いという話をPdKで聞いてきた(が、これは信頼できない)巨大な家屋。これを拝見、と思ったところ、中から額に容れた書状をもった子供が出てきて、インドネシア語と英語で書かれたこの内容というのがふるっている。「この家を維持修復するために見学者に寄金を募る」とある。これが修復のために使われる金でないくらいのことはわかる。しかも、観光客相手の商売を僕にもしようというのだ。ということに腹を立てて(黙ってここまで連れてきて何もしない村長にも腹を立て)、結局、中は見なかった。これは相変わらず浅はかで思慮のない行為であった。惜しいことをした。本来なら、こういくべきであった。このような形で観光客から金をあつめる以上、寄金者の名簿はあるであろうか、とただし、また、県知事や市長はすでにこのことを知っているのであろうね、と念を押し、さらに畳みかけるように、私は市長からの書類を持っているが、それでもこういう形で金を払う必要があるだろうか、と言う。一軒で金を払うということは、他の家を見るたびに同様の金を要求されるということで、家屋調査は成立しない。が、これは後の祭りで、結局この家を見学することはできなかった。後で知ったことだが、この家主は現村長選挙の際に立候補して破れた、いわばこの新村長(彼はインドネシア人らしからぬ清廉潔白な金の使い方をし、また旧村長の汚職についてさんざん聞かせてくれた)とは犬猿の仲であるからして、村長が見ているだけだったのもわかる。そうとはじめから知っていれば、強引にねじ込んだものを。逃がした魚は大きいという喩えあり。
しかし、Jopu 独自の家屋形式は、この Lio 一般型の Sao Ria ではなくして、Sao Banga という。この住民たちによってプラフ型の屋根の家屋と考えられている蒲鉾屋根の家屋だ。かつて、一般住民のほとんどは Sao Banga だったというが、いまは Kam.Jopu と Kam.Rangase に各1棟残るのみ。Kebo という穀倉もかつてはこの蒲鉾屋根を載せていたらしい。が、いまはやはり2棟残るだけで、他は寄棟。これに対して、Bhaku(納骨堂)は Sao Ria 型の長大屋根を架したもので、いまでも多く残る。Moni の Bhaku との違いは、Peti(木箱の棺)の置き場所が Jopu では上から吊られていること。もっとも、Moni の Bhaku、Kebo はどこまで原形を残しているか不明だが。
洗骨再葬風習:死体はいったん埋葬された後、数年経って儀礼とともにこれを取り出し(儀礼の費用が大きいため、特定の者しかこれを成就しない)、洗った後、布でつつみ、木箱に移して Bhaku に置く。あるいは、死体をアレン(サトウヤシ)の幹でつくった棺桶に容れ、ブリンギンの木(榕樹/ガジュマル)に吊して風化させた後、木箱に移す、という者もあり。
12月28日(日) 晴のち曇 Jopu
Kam.Rangase の Sao Benga 実測。実測にのこのこ出かけたところ、昨日入れてくれた家の主である女性が内から閂をかけ、許可しないと駄々をこねる。言うには、昨日主人の許可なく家に立ち入り写真を撮った。で、彼女はヘソを曲げ、金を出せだの、入れないだの。2時間、外で作業ののち、家主は裏口から出て畑へ逃げたというし、集まってきた村人たちと口論のあと、裏口から押し入る。実測をはじめてしまえば、誰が文句を言おうと知ったことじゃない。鬼よりこわい調査許可証がある。
のちに得た情報によれば、彼女は未婚で、正当な家屋相続者となり得ず、親族のあいだで田畑、家屋をめぐるいざこざがあり、Suku長のあずかり、という形になっているとか。彼女がヘソを曲げたのも当然といえば当然で可哀想。
例によって昼食抜きで夕方まで作業し、引き上げる。
12月29日(月) 晴のち曇 Jopu
昨日の続き。きょうはご機嫌麗しく、昼食(キャッサバとご飯のお粥)を出してくれた。そのかわり、村長宅で朝食はバナナ1本と茶。昼抜きでも、朝ちゃんと食べねば作業はできぬ。すっかり肉体労働者の身体になった。
午後より Rangase の スク長(mosalaki)の Sao Ria 実測はじめる。
村を歩いていておもしろいのは、こんな辺鄙な土地なのに、よく世界一周ですか?と訊かれることだ。気宇壮大というか、井の中の蛙というのか、世界の広さと自分たちの置かれた位置を知らない。
12月30日(火) 晴のちスコール Jopu
Sao Ria 調査。当主家族は午前と午後にココアとクッキー、昼食には鶏を殺しふるまってくれた。いたれりつくせりの気持ちよい調査。こちらの質問には律儀に、正直に答えてくれる。今年10月の屋根葺き替えに際して、豚9、馬4、羊1、犬4、鶏30羽を殺したというだけあって、かなり裕福な家柄。
夕方より激しいスコールで、ぬかるみのなかを Jopu の村長宅へ戻る。

12月31日(水) 晴のち曇 Jopu
午前中、Sao Ria の調査。この日も鶏を殺し、昼食をご馳走になった。午後、穀倉2時間の実測。Jopu に戻り、夜8時まで Bhaku の実測。
大晦日。あすは新年。本来なら今頃 Timor の Kupang のはず。近隣のガキども多く村長宅にあつまり、画面の見えない声だけのテレビを見つめる。9時過ぎ、疲れたならどうぞお休みください、と言われて寝袋にこもる。やがて、カセットを弄っていた村長は外部スピーカーとの接続を終えたらしく、騒々しい歌謡曲が明け方まで村中を騒がせた。かぎられたテープを繰り返しかけるので、どうにか眠りについても、目が覚めると同じ曲が執拗に鳴る。明け方5時にようやくこの喧噪がおさまり、ここではじめて、これは新年を迎えるための新しい儀式なのだと気が付いた。
現在、1円は約10RPだから、日本での物価を説明すると桁外れに高くなってお話にならない。1kg350RPという米の値段は、日本では2500RPになってしまう。ところが困ったことに、村人の多くは換算レートがその貨幣のもつ価値だと認識しているから、例えば1円は10RPである。だから、日本人はインドネシア人より10倍豊かである。これはまあよいとしよう。1ドルは1600RPもする。だから、米国人はインドネシア人の1600倍も豊かである。このドルには日本の円もかたなしで、1ドル160円ちかいから、米国は日本よりまだ160倍豊かである云々。彼らの頭はカタイから、そう思いこんでいる人間にいくら説明してやったところで、本当の理解には至らない。
また、こういうのもある。村にはいって、世話になっている家で済まなそうにご飯を出す。パンはありませんけど、こんな粗末な食事でよければどうぞ。日本人は(先進国は)パンとチーズを食べるものだと思っているのだ。同じように、ここでは木造の高床家屋は貧しい未開人の住まいであって、セメントの地床家屋が発展した、つまり先進国の住居であるという了解があるから、当然、日本の家屋は地床のセメント(石)造家屋のはずであると彼らは思っている。それで、日本人は高床の木造住居ですよ、と説明するのだけれども、彼らの現在の粗末な木造以外に木造家屋というものの概念のない彼らにとって、いくら説明をくわえたところで理解には及ばないだろう。
こうして、この一年は終えてしまった。
1月 1日(木) 快晴 Nggela

1月日()

1月24日(土) 晴 Manufui
PdK(教育文化省)情報によれば、Biboki の Tamkesi という山中の部落に旧ラジャ(正しくはケセール Kaisar で、swapraja ではなく tuan tanah であるらしい。道すがらに聞いた村人の話では、このケセールは雨を呼び、風をおこすことができる)の rumah suku (クランの中心家屋)があり、数年前に村人たちの力で修復をおこなったが、構造はまったく古いままで改造はない。
こういう話はたいていダメだな。
ケファ Kefamenanu より一日一度のバスで東の南ビボキ Biboki Selatan 市の首都 Manufui まで約2時間。主要街道をそれると、途端に道は悪くなって凸凹を繰り返す。この地域は、インサナ Insana とならんで家屋前面にかならず円錐の lopo (穀倉)がある。街道沿いにこの lopo が十数棟も建ちならぶとなかなか壮観だ。Manufui の市長に報告。ここで Tamkesi の属す村の村長と会い、村長の紹介してくれたインドネシア語を解さぬ老人(rumah suku の鍵をあずかる juru kunci)と連れだって出発。
歩きはじめるやいなや金を要求する青年があらわれたり、ベルトが切れ、これを直しているうちに今度は手が切れるという不吉な前途であった。
川に沿って(正しくは川のなかを)しばらく歩き、やがて本道(乾期ならばベモもかよう)をすすむ。道は緩勾配ののぼり。同行の老人に先立って村へ向かう若者のグループと歩く。
老人、女性はインドネシア語がダメだ。アトニのような地方語でも、大地域をしめる民族になると閉鎖社会の傾向があり、Dawan語しか理解せぬ者が多い。日本人が外国語ベタなのとおなじだ。必要のない言葉はおぼえない。
さて、村へ帰るという馬に乗った青年とアタンブア Atambua へ小学校の教科書を取りに行くという3人の学生との道中で、道を急ぎすぎたためか、同行のはずの老人がいない。彼がいなければよそ者は村へははいれない、と青年たちは Tamkesi のアダットの強いことを懸念する。しかし、待てどもこの老人はあらわれず、道中、友人につかまってソピを飲んだくれているという話がつたわり、おそれる子どもたちを説き伏せ、単身 Tamkesi の村へ乗り込んだ。
Tamkesi は切り立って聳える大奇岩を背景にした岩山の村。Kaisar の住むというだけのことはあって、幽鬼ただようロケーションだ。
外国人は靴をぬいで裸足で村へはいらねば慣習家屋 rumah adat のなかを見ることはできないという変なアダットがまかり通っていて、仕方なく靴をぬぐ。裸足で溶岩質のゴリゴリした岩山をよじ登るのは、靴生活に慣れたわれわれの足にはこたえる。
この10メートルちかい小高い岩山の上に、荒々しく突き出た岩々に埋もれるようにして、いくつかの茅葺き建物がかたまる。奇観。
ところが、家屋のほうは、数年前の改造が功を奏して、なかは体育館の殺風景さ。外観は原形をとどめているというものの、これでは調査にならない。2本の棟持柱にささえられた北部ベル型の家屋。ベルのような高床がなく、地表に根太を配したひくい板床と地床の炉が同一屋根下にある。これはアトニの地床生活とベルの高床建築の折衷だろう。
村人にまともなインドネシア語を話す者がおらず、建物規模だけ測り、聞き取りもできず、村で一泊する予定を返上して、その足でManufui へ引き返す。Manufuiの市長宅到着は完全に暗くなってからで、たったひとりの道中。昼食とらず、村でもらったオレンジをかじっただけで往復5時間。家屋の実測中に得体の知れない虫(アリ?ダニ?)に素足をやられ、下半身全体に赤い虫刺され痕がのこった。
妻が出産前というなぜか暗い市長の家で一泊。


1月日()

1月日()

1月29日(木) 雨 Busalangga
旅の途中に時間をみつけて日記をつける。好奇心の強いインドネシア人のつねで、周囲の人間こぞってこれをのぞき込む。失礼という感覚はない。どうせ読めないと思うけれども、意識すると筆がとまる。考えてみれば、インドネシア人が物を書いているというところを役所以外では見たことがない。
日本へ行ったことのあるインドネシア人の感想に、電車に乗ってボーっとしている日本人はいない。みんな新聞や雑誌を読んでいる、というのがあった。新聞というのは東京スポーツかもしれないし、雑誌は平凡パンチのようなものであるかもしれないけれど。
インドネシアで調査に退屈したら飛行機に乗るにかぎる。空から地上をながめる。あたらしい土地に行く。これで麻痺した感覚を再活性する。料金はやすい!!
クパンは夜半より早朝まで豪雨が続く。朝6時半、小雨の中をオートバイで飛行場へ向かう。サヴ島行きは雨のため2日間欠航し、きょうもなし。したがって、調査地はロティ島に決まる。雨期の飛行機は流動的だ。
ベモでいったんクパンに戻り、精一杯贅沢な食事をとり、M宛の手紙を出す。小島に渡るといつ帰って来れるかわからない気になる。
ロティ島には山がない。空から見るロティ島は、ほとんど起伏のない土地のそこここが雨のために広範囲に冠水している。水田かとおもうと、幹線道路がこの冠水のまっただ中を横切っているからそれとわかる。ほとんど沼沢地とかわらない。雨を避けてロティ島まで来たのにここも雨。ロティ島はインドネシアの最南端だ。
Baa にある Lobalain 市役所に報告。頼んだことは聞いてくれるけれども、応対はそっけない。あとできくとサヴ島人で、クパンの公共事業省の副所長もやけにそっけなかった。これもサヴ島人。仕事は早いが身をかわすのも早い。
オランダはロティ島の統治に手を焼いた。そこで島民にソピ(ロンタルヤシの焼酎)を飲ませて懐柔し、18の小王国にわけ、互いを争わせて統治した。現在、この小さな島には6つの市 Kecamatan があり、人口 人を数える。将来、県 Kabupaten になるためには最低6つの市が必要。
この市長宅で偶然会った町会長のペンナ氏の親切で、彼の家で食事後、彼の娘婿のモナド人(上辺だけ親切で誠意ない、弁解は上手なくせに、行動は伴わぬ、得体の知れないモナド人)のオートバイに便乗し、南西ロテ市 Kec. Rote Barat Daya の Thie へ向かう。
「トゥアン ガソリンを入れてから行きましょう」
Baa から Thie まで約23km。約半分すぎたあたりで街道沿いにいくつもの伝統形式の住居が見える。Busalangga (北西ロテ市 Kec. Rote Barat Laut の中心)にさしかかった時に、激しい雨にあい、このモナド人はいろいろ理屈をならべて結局 Thie まで行くことはできなかった。彼の理屈はくどくどしく嫌味だ。
雨後、ここの市長宅に世話になることになった。彼はアロール島人。中国人的な顔の、それでも純粋ロティ島人という奥さん。ふたりとも知的で親切。なにも血縁関係がないはずなのに、4人の子供のうちひとりは白子だ。しかし、家庭はあかるい。
1月30日(金) 雨 Busalangga
北西ロテ市には Boni という閉鎖的な村があり、ここまで行けば古い家屋は多くのこる(だろう)。しかし、約20km、雨期の期間、車の通行は不可能ということで、ここでは断念。かわりに Desa Netenai という約6km離れた村に巨大な(?)未改修の伝統住居がのこるという情報があって、この調査のために役所の所員ひとりと連れだって出発。
途中、Dusun Oetutulu で台風並の豪雨にあい、この村長宅で休憩。ついでに、この村のふたつの古い家屋を見る。ロティ島で、伝統住居そのものはいまでも建設されているから、外観だけでは古いかどうかの識別はできない。あたらしい(?)伝統住居というのは、多くの場合、近代化の影響で従来家畜空間であった床下を壁で囲い、地床生活をできるようにしてある。それで床上はほとんど機能をうしなって倉庫と化す。床上の炉もつかわれずに、床下に炉をもうけ、あるいは別棟の台所で調理する。こうしてみると、高床生活から地床への移行段階にあると考えることもできる。
Desa Netenai 到着は3時頃。先刻の豪雨で道路にも水があふれている。目的の Paulus Mbau の 家屋 ume はたしかに大きい。桁行の通柱2本のところ、ここは3本ある。しかし、棟持柱がなく、かわりに真束。棟木は垂木を貫通させるロティ形式で古い。あたらしいものはこうした棟木の納まりをとらずに、上下2本の棟木で垂木を挟み込む形式にかわっている。あかるい近代生活の普及で、薄暗い高床の建物内はここでもほとんど使用されずに、生活空間はかつて家畜の飼育場であった床下。蚊帳付きのベッドを置き、椅子をならべ、建物の外壁には窓をもうけ、デコレーションに新聞紙、雑誌の写真を隙間なく貼り付ける。それでいて、屋根裏は神聖だからのぼってはいけないなどともっともらしく言うところがおかしい。ともかく真束の伝統住居はないので、調査はあきらめ、簡単な聞き取りで済ます。
午後5時、家を辞す。ソピを飲んで気が大きくなったのか、やたらと雄弁になった案内の役人のかたるところによると、屋根裏にのぼると雷にうたれるといわれ、彼は畏れた。家人たちは金の支払いを要求したけれども、そこは学生だからと説得し、オレのポケットから5000RPを引き抜き、ソピを1本買ってこさせた。飲みつ語りつ、主人は屋根裏にのぼることをゆるしてくれたけれども、もう帰るというのでそれにしたがった。
こんなやりとりはロティの言葉でやっていたわけだから、僕の知るところではない。もっとも確実なのは、この男の酒好きと酒癖のわるさで、たんに酒と仕事をむすびつけたかっただけだろう。帰りが夜遅くになるからと急き立てる僕をそっちのけで、ここはオレの領内だから暗くたって大丈夫、といつまでも居続ける彼をうながし村を出る。
道は一本道といえども、ほとんどがひどい泥濘だから夜道も大丈夫などと言ってはいられない。彼はやたらとしゃべり、ウマの鳴き真似をし、途中の家で喉が渇いたからと茶をいれさせる。これを煽ってまた歩き出す。ロティ島では、腹が空けばどこかの家にはいって要求さえすればよい、と自慢げに言う。
7時半、ようやく市長の家にもどり、調査の報告。あいかわらず雄弁な彼。ふたたび心地よいベッドで寝た。
雨と泥濘のせいで、日本からもってきた靴の底はついに開きはじめた。喉が痛い。
風雨のため街道沿いの大木がたおれ、たまたま通りかかった小学校の生徒8人がこの木の下敷きとなった。車で通りかかった市長は彼らを Baa の病院にはこんだ。ひとりは車中で血を吐いた。ひとりは後頭部がつぶれて死んだ。4人が入院した。


1月31日(土) 雨ときどき曇 Sunsa
市長のつけてくれた所員とオートバイで約13km離れた南西ロテ市の中心 Batutua へ向かう。本来なら当初の目的地だ。13kmはオートバイで1時間半、人間の歩行とさして変わらない。しかし、このオートバイは途中パンクのために走行不可能となり、結局オジェックに頼ることになった。道路の泥濘がひどく、道なき道を走る。市役所到着とほとんど同時にふたたび豪雨。激しい風が吹きあれ、あたかも台風。これだけ連日まとまって雨がふれば、日本だってすぐに浸水や土砂崩れがおこるだろう。雨期に車の通行が不可能なこの島の状態を未開だと言い切れるものではない。
市役所でつけてくれた所員ひとりを従え、Sunsa へ。Sunsa は Batutua と Busalangga のほぼ中間に位置する交通不便な閉鎖的村落。ロティ島のほとんどの村へはとにかく車道が通っているから(雨期のあいだ用をなさないにしても)、車道のない村は例外的な僻村ということになる。
途中の川が増水して渡れず、海岸まで迂回し、河口近くの流れの緩やかなところを選んでわたる。それでも水は股まである。途中立ち寄った古い家の写真を撮り、ここでピーナツとグラ・アイル(ロンタルヤシの樹液からつくる蜂蜜状の砂糖液)の昼食。Sunsa まで約2時間。
ここでも目的とする古い家はすでに修復(改築)後。壁はベニアにペンキで絵を描く。森で木を伐り、不揃いな板をつくるより、市販の一見美しく加工された工場製ベニアのほうが価値があるし、10年ごとに葺き替えねばならないチガヤやグワンヤシの葉よりもトタン屋根のほうが格が上なのだ。
古い建物ということで案内された崩壊寸前の家をそれでも伝統形式がよく整っているので調査することにする。Belu 型の(棟持柱のあるティモール島ベル地方の家屋形式)2本主柱家屋。平入りで平側にデッキをもうけている。他の家屋形式と同様で、この地方のプロトタイプらしい。
市役所から案内してくれた役人が僕のことを大統領の許可をもらった客人と吹聴したので(昨日の村で金を要求されたということがあり、そうならないように市長に念をおしておいた)丁重な扱いをうける。もっとも、水浴にもWCにも誘ってくれないのは、そういう場所のないことが普通の生活観念だ思っているからだろうが、これは困った。
ちょうど村で結婚式――婚資を払い、はれて嫁をもらいうける時があったために、この夜はロティ島の音楽と踊りを見物。ゴングと太鼓を巧みに組み合わせた心地よいミニマル音楽。このミニマルと日本的な激しい太鼓のリズムがかみあう。踊りも秀逸で、さながらディスコ。
僕のためにヤギを一頭殺すが、ご自身でこのヤギに一太刀浴びせますか?それとも若い者にまかせますか?とあらたまって聞かれ当惑。



2月 1日(日) 晴、夕刻激しい雨と疾風 Busalangga
トイレをこらえ、必死の図面採取。朝より午後4時まで。久しぶりの快晴。強風に乗って雲は飛ぶように流れる。
調査を終え、村人の案内で北西ロテ市の市長宅へ向かう。道はない。田をこえ、畑をよぎり、川をわたり、沼地をさまよい、雨のために土砂崩れをおこした絶壁を歩く。途中、雨。遠くに雨、とみるまに滝のような雨を浴び、カッパをかぶる間もなくカメラバッグ、背負子もずぶ濡れになった。この雨のために、白い粘土質の泥濘のなかを滑りながら斜面を上り下りするはめになった。
もっとも、ロティ島には山といえるほどの山や森というほどの木の繁みはないので、こうした歩行もさして苦にならない。サバンナの景観は全周360°視界がひらけ、ハイキングの心持ち。
約1.5時間で市長の家に到着。さっそくウンコ。ロティ島到着以来はじめて服を着替え、洗濯。喉痛く熱っぽい。1週間ちかく、喉がキリキリ痛む。変な病気だったらこまる。
2月 2日(月) 晴、風強し Lalao
Baaまでは市長の便宜で役所の人間がオートバイで送ってくれた。今までの市長のなかでもっとも面倒見のよい市長。Baaの町会長の家で彼の帰宅を待って時間を潰す。
午後3時40分、オジェで東ロテ Rote Timur 市の Lalao へ向かう。想像以上によい道を約2時間で Lalao の市場着。町会長の紹介してくれた中国人のオジェはしっかり1万RPを巻きあげて去った。ふつう6000RPと聞いていたから好意でもなんでもない。中国人にはかなわない。
大きな伝統住居があるよ、という話はたいていガセネタだ。けれども、ここの王家は本当だった。やっと目指す家に出会い、思わず緊張する。柱太く、各部材は大ぶり、それでいて納まりはきちんと整い、改変の痕跡がない。屋根に穴が空き、修復の費用がかかるために取り壊す話があったという。それで、この家をさんざん褒める。ロティ島にはこうした家はすでに一棟しか残っていないこと、東ヌサトゥンガラ州全体を通しても数少ないことなど説明する。外人、しかも技術先進国の日本人に褒められて、彼らははじめて自分たちの文化財に気づく。こうした場合、一所懸命に調査してやればやるほど、彼らの家屋に対する思い入れもふかまる。
この日はすでに夜で、簡単な聞き取りだけで寝る。
2月 3日(火) 快晴 Lalao
家主の要求で8km先の市役所へ行き、調査の許可をとる。きょうはたまたま週一度の市場のある日で、バスの便があった。けれども、ふつうの日にはバスがない。村よりはるか先の市役所まで出かけ、ふたたび戻ってくるという現実にはほとんど不可能なことが、政治システムの上からは平然と要求されているのだ。こうした官僚主義とつきあってゆけることが、インドネシア調査の最低条件。ご公儀でござる!!
要求通りに書類をもらって(東ロテ市の市長が理解あって、すぐに書類を用意してくれたので助かった)トンボ帰り。ついでに市長の家でトイレを借り……
残りの一日をほとんど写真撮影についやす。夕刻より図面取り。ロンタルヤシを使った大ぶりな梁桁はたいてい心材が腐ってなくなり、お椀状にえぐれている。ヤシ材の基本的な欠点で、丸太や半割材を使う場合には問題ないが、心材のみを使用すると容易に腐朽する。おなじロンタル製の妻飾りも腐って落ち、いまはない。この妻飾りは独立材でなく、棟木の延長なので、棟木を変更する以外に修復する手段がない。Kula を使った柱は十分な強度を維持しているが、ロンタルヤシを使った上屋構造はほとんどが破損を受けていて、見た目には十分整っていても、このままではあと10年くらいしかもつまい。かといって、修復するにも予算の問題以上に、これを管理できる技術者がいない。ラマクネン(ティモール島中部)の王家とおなじ結果になるだろう。結局、いまのところ打つ手はない。
夜、この家の居候氏の誕生日で、この伝統家屋でもささやかなパーティー。おもしろいのは、かつて主要な空間であったであろう高床の室内がまったく使用されず、庇下の土間空間が社交、就寝、調理の場となっていることだ。このパーティーも庇下空間に机、椅子をならべ、ジャワでみるように、受け取った皿にいくつかのおかずをテンコ盛りしてゆく。Sunsa のペスタでもゴングを鳴らし、踊りを踊るのはこのバレ空間だった。このパーティーのために床下の炉で蒸し焼きしたやけにおいしいパンを食べる。
「日本にヤシの木はありますか?」
「木はあるけど、実はならないよ。寒いからかな。」
「じゃ、パンに塗るバターがなくて困るでしょう?」
(あっ、そうか、それでこの国のバターは臭いんだな。ヤシ油から作っていたのか)
「バターは牛乳やトーモロコシから作るさ。」
へえー、というどよめき。そこで今度は僕。
「ねえ、ロティ島っていうけどこの島の名前とパン(Roti)と関係あるの?」
「それはありませんね。むかし、ポルトガル人がこの島を訪れたときに、住民に島の名前を尋ねたら、言葉がわからないでしょう? それで自分の名前を訊かれたと思ってロティと答えたら、それが島の名前になったといいますね。」
こういう話は多いな。ルソン島で「臼」を指さしてこの島の名は?と訊いたものだから、ルソン(臼)となったとか。
夜は更け、12時ちかくまで、このパーティーの主賓である影の薄い老人そっちのけで、日本の話に花が咲いた。
ここの村人たちは純朴であたたかい。
ヨーロッパ人の旅行者が半ズボン、Tシャツ、サングラスで闊歩するのと、あなたはちがう。やはり東洋人ですね。あるとき、オーストラリアの旅行者が水浴をしたいというので泉に連れて行ったところ、彼は素裸になったので村人はみんな驚いて逃げ出した。彼はキチガイだとわれわれはおもった。
インドネシア人は慎み深く恥ずかしがり屋だ。
2月 4日(水) 快晴、夕立 Lalao
朝から村人たちと連れだって木の撮影。木の撮影のあとは、伝統衣装をまとった村人たちの記念撮影。気を許すと,私もよ私もよとばかり際限ない。写真を撮るのはいいけれど、あとの処理に金がかかるから大変だ。
日本時代に日本軍はこの家に起居しておったそうだ。日本時代には盗人はいなかった。盗みをはたらくと、クギを無数に突き刺した板切れでもってこの盗人の手をたたく。
「おまえがやったんだな」
バシャッ。
手はみるみるうちに血みどろと化す。いまでも日本ではそうですか?
午後3時までに図面を取り終えてBaaへ帰るつもりが終わらない。聞き取りをしようにも部材名称や空間名、機能を知っている者がいないのだ。50すぎの男が、私は若い世代だからよくわからないと答える。伝統は生きているようで本当はとっくに過去のものなのかもしれない。
ヤシ砂糖の甕だけがおかれたガランドウの床上空間を指さして(炉も使われずに瓦礫の山だった)、ここは誰が使うのか、と訊くのもなるほどバカげている。
驚くべきことは、午後になって、10人ちかい村人が屋根にのぼり、急遽、屋根の破損箇所を修理しはじめたことだ。チガヤを取ってきて棟をふさぐ。
屋根を修理し終えたらまた写真を撮ってくれ。だから帰るのはあすになさいと言われる。僕の調査の効果がこんな風なかたちであらわれるのは嬉しい。思わず図面も細かくなる。
というわけで、結局Baaには戻れず、また一夜をあかす。
ヤシ砂糖を溶かした水をがぶ飲みする。ロティ人はこれだけで食事を済ますけれども、力があって米俵をかつぐ。米を食っているわれわれは力がなくて駄目だ、と北西ロテの市長が言っていた。ヤシ砂糖は蜂蜜に似た風味。これだけ食べ続けても糖尿にはならないという。果糖だからか。澱粉の補給にはなるはず。
ここではヤシ砂糖とパパイヤの葉を食べる。南西ロテ市のThieではピーナツとヤシ砂糖、ご飯にヤシ砂糖だった。ご飯に砂糖水をかけて食べるのはお菓子のようでなかなかオツなものだ。



2月 5日(木) 晴のち曇のち雨 Baa
村の若者の駆るオートバイ(半分壊れた)でBaaまで3時間。途中、家の写真、木の採集、コサンビの実(ブドウの口当たりでチェリーの味)を食べながらのたのしい道中。ところが、Baa近くで雨にあい、またズブ濡れになる。
飛行機はいずれも満員で、来週水曜までのチケットはない。さあ大変。この島に幽閉はこまる。ケイ諸島の二の舞。
例の町会長の娘婿のモナド人にたのみ、あす飛行場で直接掛け合うことになった。その後の情報では、破損中のフェリーにかわって、あたらしいフェリーが土曜日に出港するというが、これも諸説あって風評の域を出ない。小さな島のくせに情報は混乱。思い入れと真実の区別はつかない。
久しぶりにロスメンに泊まり洗濯。電気のある個室におさまって1週間分の日記をつける。
2月 6日(金) 晴のち曇 Baa
日本から持ってきてもらった登山靴は、濡れたままで泥濘を歩きつづけた結果、とうとう底があいた。カメラはFA(NIKON)のほうはフローレスの頃からストロボが同調しなくなった。天候のよい日がつづくと同調するようになるから、黴のせいか。FE2は、Lalao の調査時に開放測光用のスプリングが切れ、測光不能になった。分解し、切れたスプリングをとにかく繋ぎ合わせたけれども、これも時間の問題でまた切れる。錆がまわりはじめたのだ。背負子の肩あてのヒモは今にも切れそうで、危ういところでつながっている。これが切れれば荷物の運搬は困難だ。紙幣入れを兼ねたベルトはチャックが壊れ、半ば開いたままだ。そのうえ、金具は力をいれるとはずれる。何度締め直しても、ツメが甘くなっているのですぐにまたはずれる。ヘッドランプはロンボックとティモールで二度ランプが切れた。長時間使いつづけるからランプの寿命か。このランプはここでは売っていない。ロンボック島のルクマン氏所有のヘッドランプ(スラバヤで買ったそうだ)の補助ランプを貰い受けてあったから、現在はそれを使用している。これが切れると、もう調査は大変だ。日本から持参した物のうち、太陽電池・電卓付きの時計はマルク(大Kei島)の調査時に海水につかって壊れた。現在は、ダイバースウォッチの電池を交換して使用している。実測用のメジャーはキサール島で折れた。先端が折れると、全部が中に巻き込まれて使用できない。バンドンで購入したセンチ・インチ共用のものを使用しているが、これもずいぶん変形した。ジーンズのズボン2着のうち1着はヨレヨレにすりきれてスンバワ島を離れるときに捨てた。ジーンズのYシャツはまだ丈夫だけど、ボタン孔が広がってボタンがすぐはずれる。カメラバッグは酷使に耐えてまだ十分使用できる。パンツはすり切れてところどころ穴があいた。シャツは脱ぐ拍子に破れた一着を捨てた。洗面用具入れもボロボロになった。寝袋の袋はやぶれ、丸めてしまうことが困難だ。雑巾のようになったタオルは二度捨てた。サンダルは何度も切れて交換したから十足ぐらいになる。
調査も二年近くになると、消耗するのは肉体ばかりではない。
昨夕以来、何度か激しい雨が降った。日中の天候はまずまず。早くこの島を出発したい。天候のよいうちに。けれども、モナド人との約束はあてにできない。それでも待つしかない。
日記をつけるより時間の潰しようがない。たとえばクパンやケファ(Kefamenanu)なら、店を覗いて歩くということもある。バスは頻繁に往来するから、どこへ行くのも自由だ。しかし、この小島のなかでは、かぎられた店があるだけだし、行くところもない。車に乗って隣の町へ行ったが最後、戻りの車を見つける手だてはない。マルクの時もそうだったけれど、何もできないときに日記はふえる。反対に、いろいろと事件のあったときには書いている余裕もない。
Baaの町は海岸通りに店がならぶ。店の裏はすぐに海だ。この時期の海は荒い。ときに突風が吹き荒れる。道沿いのヤシの木は折れそうなほど反り返り、トタン屋根はめくれ上がる。突風とスコールが過ぎ去ると、ふたたび熱帯の太陽が顔を出し、物憂い海岸通りに人びとはたむろする。
仕事、調査、外界そのものからあまりにも無縁な時間の進行。毎日繰り返されるスコール。週一度のパッサール。年に一度ずつめぐる乾期と雨期。このリズムに乗らないすべてのことは、意味をあたえられることがない。忘却あるのみ。
海水パンツを持ってこなかったのは惜しいことをしたな。ちょっと疲れた。
モナド人はやっぱりあらわれなかった。いまごろ弁解の文句でも考えていることだろう。昼前にすでに突風とスコール。この突風のために、一昨日の飛行機はあやうく墜落するところで、着陸できずにクパンへ引き返したという。
雨の後の町を歩く。フェリーの便を確認に行くと、あす出港するとの確報を得て、切符を買って帰る。クパンまで5時間だ。道ばたでコサンビの果実を買い、立ち寄ったワルンでコーヒーとバター付きパンを食べる。結構優雅な気分。
Sasando という楽器を買い求めに行く途中、町会長に会い同行。
「どうして家に泊まらない」
と訊かれる。昨日彼の家に行ったけれども、家族の感触は冷たかったのだ。
この島にいる猫はすべて日本猫だ。ここでは猫も食べる。猫の肉は鶏肉のような味だという。
日本では犬や猫は食べません、と言うと、けれども日本人は蛇を食べるでしょう、と言われる。戦争中の日本兵はさかんに蛇を捕まえて食べたらしい。トッケイも食べましたね。それから日本人は甘い物が好きで、何にでも砂糖をまぜて食べていたなあ。
インドネシアの甘すぎる紅茶やコーヒーに閉口しているいまの日本人には意外だろう。


2月 7日(土) 晴 Kupang
Baa のロスメンに2晩泊まった。2日目から日本人であることを知られたら料理の質が格段によくなった。
初日の夜食。ご飯、ポークビーンズ風のブタ脂身と豆の煮込み、パパイアの実をこの脂で炒めたもの、ヤキソバ、という村の食事とあまり変わらないメニューだった。朝食のナシゴレンはご飯に卵をおとし、ケチャップで味をつけただけの料理。喉につかえるほどに炒めすぎてボソボソになったナシゴレンは間違いなくインドネシア人の料理だった。
そして2日目。夜食は、ご飯、大きな鶏肉のステーキ、ジャガイモとニンジンと鶏肉のスープ、パパイヤのカレー炒め。朝食のナシゴレンは、卵と豚肉をまぜ、うすい塩味で炒めたうえ、おまけに目玉焼きがのっていた。デザートにバナナ。
こんなことを書きならべるのは暇な証拠か。
戦争中の日本人の印象。Pendek-pendek(低身)、berani(勇気ある)、hebat(強烈)、pukul(殴る)、mati bagus(死ぬのは上等)、Indonesia Joto-nai(インドネシアは上等でない)、Shinto(神道)
午前中をほとんどぶらぶら所在なくすごす。町に出てもすることなく、仕方なしに(?)コーヒーを飲む。
11時15分、おなじみコルトディーゼルのバスでBaa発。12時45分、日本時代に軍港であった Pantai Baru 到着。ここで海岸に腰をおろし、多くの乗客とともに船を待つ。クパンは出たらしいという噂だけが頼りで、あてどのない船を待つ。朝から入港しているという噂もあったくらいだから、この目でたしかめるまでは信用できない。
1時をすぎる。2時もまわった。3時になっても船影はない。フェリーが入港したのはゴム時間の3時半。このフェリーに、北西ロテ市からBaaまでオートバイで案内してくれた男や Lakao の村長などが乗り合わせている。
波おだやか、風雨なし。ロティ島東部の海岸線はマングローブの群生するほとんど起伏のない板状地形だ。
クパン入港は夜10時。Sasando ホテルに入宿のつもりでいたけれども、この時間では食事にありつけない。仕方なくベモでプルムナスに帰る。案内する乗客たちのなかで僕は最後にまわされた。町中を走り回り、乗客を降ろした挙げ句、プルムナスにはいる。住所と名前を言う。
車掌「ほら、ここが家だよ。」
よく見るとちがう。「ここじゃないよ。番地は・・・だから、そこまで案内してくれ。」
車掌は車を降りて聞きに行く。彼の声が聞こえる。「ドイツ人で骨董品をあつめている男だ・・・」(?)
車掌、戻ってきて「この裏の通りだよ。すぐのところだから歩いて行けるよ。」
僕「家の前まで送り届ける約束だろう? いままで引きずり回しておいて、ここで放り出すテはないだろう?」
この押し問答を聞きつけて運転手もあらわれ、「もうガソリンがないからここまでだよ。さあ降りな!」
こっちはますます腹をたてる。「ガソリンのあるなしはお前たちの問題で僕の知ったこっちゃないよ。」
この騒ぎを聞きつけて近所の若者があつまる。「ラムリのうちならあそこを曲がったところだ。一緒に行ってやるよ。」
僕「約束は約束だから家まで送ってくれ!」
運転手はふたたび車に乗り、車掌をせきたてる。「さあ、ターミナルへ帰るぜ。降りたくないならターミナルへ戻るんだな。」
若者たち「ほらトゥアン、ターミナルに逆戻りするよりここで降りた方がいいよ。」
「ばかやろー、そんな脅迫に大人しくしたがっていられるか。」
日本語で悪態をつきながら車を降りる。運転席の窓から運転手の襟首をつかむ。中国人系のヤサ男の彼はヒェーと絶叫して運転席に伏せ、「送ります、送ります。」
この反応にはこっちがビックリしてしまった。さながらヤクザだな俺様は。それにしても、居丈高のくせにやけに度胸のない男だ。度胸がないのはうしなうものが大きすぎるからで、うしなう物のないヤケクソの奴ほど糞度胸がある。
調査旅行も5ヶ月をむかえると、精神的にストレスがたまるのか、こちらの態度が硬化してやたらと軋轢をおこすことが多くなった。さながら日本兵の生き残りだ。

2月 日()

2月 日()

3月 3日(火) 晴 Wunga
スンバでは荷物を背負って山歩きをすることはもうあるまい、と考えていたのにまた歩く。クパンで買った12,000RPの靴は底が半分剥げてヒタヒタ音をたてる。これをボンドでくっつけ、バンドンまでもってください、と念じながら再び歩く。
スンバで車に乗って引き回されることはもうない。7時に乗ったトラックは荷台がガラガラにもかかわらず町を出た。快調。大きな川を2度渡り、Kadahang 到着は9時15分。村長とラジャに報告。長期滞在中の小池氏が同行だから面倒なことはいっさいない。村は飢饉で食物なく、村人は山芋をさがして食べているという。ラジャの家で食事をふるまわれているうちに午後2時になり、供の者を一人従え、村へむけて出発。道は、太陽の直射をさえぎる木もないということを除けば、比較的平坦で楽。約3時間半かかってWungaに到着し、シリ・ピナンのふるまいなどを受けているうちに夕暮れとなり、実測をはじめることができなかった。
東スンバの人口密度は極端に低い。Kadahang から Wunga まで、村といえる程度のものはない。雑草のおいしげる珊瑚岩だらけの土地で、水が少ないために農作物の収量は低い。雨のかげんでトーモロコシの収穫がおくれると、途端に飢餓の季節に突入する。
Wunga は丘の中腹にある20棟ちかくの慣習家屋からなる村。村の敷地自体、珊瑚岩が荒い地肌をみせていて、村の建設にふさわしい土地とはいえない。西スンバでは壮麗なドルメン群も、ここでは平滑な岩が入手しにくいためか、このゴツゴツの珊瑚岩を切り出したもので、レリーフは不可能だ。いくつかの古い遺物が残るけれども、この土地の気風も同じで仕上げはきわめて粗い。竹以外に建物に適当な木が近くで得られないこともあって、主柱を除いては頻繁に改修を繰り返してきたものとおもわれる。このなかから、Waimolu という一棟を選んで実測に決定。ラジャ所有の Prain 家も古いが、家屋横にバレ(付属屋)のつく特異な形式。あきらかな後年の追加だが、これもアダットで古い形式に従っているだけと言われれば返す言葉はない。アダットもつぎつぎ塗り替えられる。最近は外国人に金を要求するアダットが多い。


3月 4日(水) 晴 Wunga
家屋実測、写真撮影に一日費やす。天井裏にのぼった汚い身体も、マンディ場がなく、そのままで寝る。カユイ。クサイ。
3月 5日(木) 晴 Mondu
Waingapu 行きのトラックが来る日で、今日をのがすと土曜日まで Waingapu へ戻ることができなくなる。5時起床。実測の続き、写真撮影を終え、あわただしく8時に村を出発。作業の不完全な部分はあとで小池氏に訊ねるしか方法がない。Kadahang まで道に迷いながらも休まず歩き通して、2時間半で Kadahang におりる。
しかし、トラックは現れなかった。一度村をおりてしまった以上、なんとしても Waingapu へ戻るしかない。Kadahang で遅い朝食をとり、ラジャの家に残る小池氏と別れ、Kapunduk に向けて歩く。Kapunduk には市役所の支部があり、ここでこの役所長に頼めばなんとか Waingapu へ行く車が見つけられるだろう。
Kadahang から Kapunduk まで約6km。休もうにも木陰もなし。水で濡らしたタオルをかぶってひたすら歩く。約2時間かかって Kapunduk 着。役場前の広場は閑散として車一台、人気もない。定期市場になるはずの露台に腰をおろし、しばしボーゼンとする。話しかけてきた男は、この市場横に小さな店を構えるスンバ人で、スプライト、ファンタ飲まないかね。ビスクエもあるよ。これでは水を頼むこともできない。役所長はクパンに行っていていない。セクレタリスもいない。役所はすでに閉まっている。見わたせば、車はおろか、オートバイすら通る気配もない。露台上には数名の村人が無関心に横たわっている。無気力だけがこの場を支配している。
この露台で一夜をあかすか。さりとて、一夜をあかしたところで Waingapu 行きの車があす来るという保証はない。それならば歩いてでも Waingapu へ近づいたほうがよい。Waingapu まで約50kmだから、歩けば明日中には着くことができる。疲れてはいるがこうなった以上、他に手段がないのだ。隣村の Mondu までは約10km。急げば1時間半、俺は1時間で行ったことがある。などという時計も持たない村人の話を信じる気にはならないけれど、4kmくらいかな、とはかない期待をいだいて再び歩きはじめた。
道は平坦で問題はない。暑い太陽もすでに西に傾いた。背中の荷物もさして苦痛ではない。しかし、底のうすい靴で荷物を背負って石だらけの道を歩き続けた足の裏がすでに腫れあがって歩くたびに痛い。スピードはだせない。Mondu に着いたのは約2時間半後で、この間、家らしい家すら出会わなかった。足はほとんどいうことをきかない。ヒカラビタようになって村にはいり、最初の家で水を所望する。Kadahang で遅い朝食をとっただけだが、水を飲みすぎたので食欲はない。
村長宅まで行くために大きな川を渡る。靴をぬぐと針の山を歩くような案配だ。ここの村長宅の板床の上にティカールを敷き、よく煮え切らない砂利のようなご飯を食べる。Wunga での実測後、マンディもしていない身体でもう一泊する。まるで兵隊だ。蚊がかまびすしく飛び交っている。
Wunga を朝出発してから7時間歩いた。足が火照って熱い。
3月 6日(金) 晴 Waingapu
6時50分、コーヒー一杯を飲んで Mondu 発。途中で非常用に持参した牛肉の Abon(田麩)を食べ、道中の喉の渇きを癒すため、コサンビの実をひろって袋につめる。約15km離れた隣村の Hambaplain まで行けば、Waingapu 行きのベモが見つかる。
足の裏の鬱血はひかず、歩きはじめる以前からすでにビッコ。途中、緩傾斜の坂をのぼることができず、何度も休み、それでも歩く。歩かなければ何もおこらない。人っ子ひとりいない。木陰ひとつない。砂漠のような道を、時々泣き声をあげながら歩く。
Hambaplain 着10時。Waingapu 行きのベモはつい先刻村を出た。今日はもうない。水を頼んだ小学校の先生の家で休憩。食事をふるまわれ、どうにか Waingapu 行きのオートバイをさがしてもらって、半死半生で Waingapu に戻った。
夕方、どこから聞きつけたのか、コパリヒはまたあらわれ、食事を食べて帰って行った。寄生虫のように。

私の2年間のインドネシア・フィールドノートはここで終わっています。この後、翌3月7日には、東スンバ県の Waingapu から西スンバ県の Waikabubak へ向かうバスに飛びのり(当時5~6時間の行程)、Wanokaka、Anakalang で短期の調査と家屋の実測。3月12日にバスで再び Waingapu へ舞い戻り、翌日にはスンバ島を後にして、滞在拠点にしていたバンドンへと飛び立ちました。インドネシアを離れるのはそれからおよそ1ヶ月後のことです。
