フィールドノート 1987   fieldnote 1986.10.20 -1987.3.6 1986
フィールドワークを学ぶ人のために

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10月20日(月) 晴のち曇 Mataram
 バリ島での調査を終え、ロンボック島へ向かう。
 Padangbai発午前9時。快晴。マルクでの航海とくらべると、このフェリーは格段に大きく、たかをくくって本を読んでいると、揺れがひどいために酔ってしまった。軽い吐き気。読書を中止するとこれもやむ。
 バリからのフェリーは針路を北東にとり、途中で南東に針路をかえる。大きく北を迂回。ロンボック島のLembar着は午後1時(東部時間の午後2時)。Lembarはいかにもロンボック島をおもわせる朴訥な風情の港。フェリーの操縦がヘタクソなためか、接岸までにずいぶん時間がかかり、その間、客室を降りた乗客たちはバスやトラックの隙間に荷物をならべて待つ。
 LembarからMataramまでは送迎コルトがある。赤児を連れた初老の(どうみても)婦人は、車掌の制止をきかず、荷物を客席にはこびこみ、挙げ句、子どもは途中で嘔吐し泣きはじめる。傍若無人のこの婦人と嘔吐物の悪臭。
 Mataramに近づくにつれて雲、雨が降りはじめる。スラバヤで会ったことのあるイワン・タナヤ氏の店にころがりこむ。あの時、彼と同行した刺青の弟氏は、つい数日前に、スンバワ島のDompuで刺し殺されたという。犯人4人がつかまり、うちひとりをのこしてすでに放免された。この家から学校へ通うSMP(中学生)の男の子は、子どものくせにやけに人扱いにたけている。一緒に食事をしながら、「少ししか食べないんですね、もっと召し上がってください。」などと言う。この子はイワンの店にすわって一人前に金勘定から商いまでする。さすがは中国人。




ロンボック島へ向かうフェリーはバリ島東岸のPadangbai から出港する



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12月23日(火) 晴のち曇 Moni
 Wolowaru 行きのバスは7時前に定員となり出発してしまった。クリスマス休暇で帰省客多く、どのバスも満員だ。仕方なく Maumere 行きのバスに乗る。料金は Wolowaru まで1100RPのところ3000RPとられる。このバスは7時20分にターミナルを出発、途中バスオーナーの事務所へ寄り、定員のチェック。太った大柄の中国人は乗客名簿を見て、座席の番号と乗客名が一致しないデタラメさを車掌のフローレス人に向かってなじる。小学校の混乱が支配した(事実、小学校も出ていない人間だって多いのだから)現地人相手の、しかもバス停の混乱のなかで、小学校の班長さんに飛行機のような乗客名簿をこの中国人は期待しているのだ。車掌は先生の前に出たバカな小学生のように萎縮し、何一つ答えることができない。中国人はこれにますます腹をたて、とうとう手を振り上げ彼の頭を叩く。オマエ、名簿というのは何のためにあるんだ。この間、他の乗客たちはまったく無視されたままだ。オーナーは乗客を降ろし、座席を入れ替え、誤って乗った乗客3人を別のバスに移し替え、2人分の空席に乗るべき乗客をターミナルから捜してきて座らせる。約30分がこうして過ぎ、バスは定員の乗客を乗せて事務所を出発する。ところが、町はずれまで出たところで、待っていた客2名をさっそく拾う。まさにキツネとタヌキの化かしあいで、これらの客については彼らの懐に金がはいるという仕組みなのだ。
 Wolowaru まで約3時間。役所で書類を書いてもらうのに2時間もかかり、さらに Kam.Koanara というPdK(教育文化省)によるお墨付きをもらっている村のある Moni に戻るのにトラックを待ち、Koanara 到着は4時。しかし、Koanara にあるのは古い家一棟。たしかに出来はよいが、疲弊したように建ち並ぶセン葺きの小さな地床家屋群のなかで余命を送るといったありさまだ。





車掌の仕事は乗客の管理だけじゃない



12月24日(水) 曇のち夕方スコール Moni
 Koanara に残る唯一の伝統家屋の実測。家屋内の豊かなレリーフ。完成された構成。儀礼のための種々の装置。屋根の最上層にのぼるパフォーマンスで家主の理解を得る。こうした大屋根の Sao Ria(大きな家)に住むのはスク長(mosalaki と称する)の家族で、長男が代々血統を維持する。
 家屋内に置かれた数々の石片のひとつひとつに儀礼の際には食事を供える。供えるべき石の多いこと。家屋の奥二隅、mangu と称する棟持柱の下、lena という1階張り出しの棚部分の隅、tenda-teo という棟近くのもやから吊られた供物用カゴの中の石(この石を watu wula leja 月と太陽の石の意味、wula-leja は日月神)。どこから入手したのか巨大な象牙が4本、家の隅に家宝として置かれている。
 家主は旧村長で、現在はPdK公認の文化財管理者。村長宅を早朝に出たため朝食にありつけなかったが、この家で昼食を出してくれた。
 夜、巨石文化名残りの石積み石柱群のなかで、セメントでかためた十字架型の近代風墓に蝋燭をともしていた。あすはクリスマス。




疲弊したように建ち並ぶセン葺きの小さな地床家屋群のなかで余命を送る

この家屋の調査図面はこちら



12月25日(木) 晴 Moni
 村長宅は朝から教会に出かける。きょうは朝食にありついて体調十分。家屋実測の続き。まる一日家にこもりきりでクリスマスは終わる。東京の喧噪を思い出してハラリ。





12月26日(金) 快晴 Moni
 調査家屋3日目。村長のいる Kam.Watugana にはかつて Sao Ria があったというが、これは現在、柱のみ残る。この柱は香木で、100年経っても実用に耐える。Watugana の Bhaku は非常に多くのレリーフをもつ。ところが、このレリーフは白、赤、青とペンキを塗り、屋根はセンに代えられている。





12月27日(土) Jopu
 午前中、Bhaku という納骨のための建物と Kebo 穀倉の実測。穀倉の屋根はすでにセン葺きで、約3時間ですべての作業を終える。就任7ヶ月目の元気で親切な新村長に送られ、12時すぎ、トラックでWolowaru着。市長宅で荷物の補充後、徒歩 Jopu へ。約1時間。道よし。ハロー・ミステールという子供の大群。ツーリス、ツーリスと呼ばれるたびに腹が立つ。
 Jopu の村長も新任7ヶ月で、新任村長は概して親切。村長の案内で Desa Jopu 内の4つの Kampung をまわる。
 Kam.Jopu には2棟の Sao Hubu Bewa(棟のあがった家)がある。形式は Moni のものと同じで造作は Moni より劣る。しかし、Moni ではゴミ溜めの真珠だったアダット家は Jopu では石積み、Bhaku、Kebo、他の古い家屋群のなかにあってマズマズの環境。
 Kam.Nuapaji には同形式でやや小ぶりの Sao。
 Jopu の起源地である Kam.Rangase には3棟の Sao Hubu Bewa。2棟はやや小ぶりで仕上げ劣る。残る1棟は Moni 形式とは入口部に変化があり、正面 Tenda の中央がわかれて、ここに階段(3段)がつき、この階段下に翼(船)をかたどった装飾板(扉下に付くのと同様の)がおかれる。
 Kam.Wolobheto のものはこの Jopu 型。すでに150年近いという話をPdKで聞いてきた(が、これは信頼できない)巨大な家屋。これを拝見、と思ったところ、中から額に容れた書状をもった子供が出てきて、インドネシア語と英語で書かれたこの内容というのがふるっている。「この家を維持修復するために見学者に寄金を募る」とある。これが修復のために使われる金でないくらいのことはわかる。しかも、観光客相手の商売を僕にもしようというのだ。ということに腹を立てて(黙ってここまで連れてきて何もしない村長にも腹を立て)、結局、中は見なかった。これは相変わらず浅はかで思慮のない行為であった。惜しいことをした。本来なら、こういくべきであった。このような形で観光客から金をあつめる以上、寄金者の名簿はあるであろうか、とただし、また、県知事や市長はすでにこのことを知っているのであろうね、と念を押し、さらに畳みかけるように、私は市長からの書類を持っているが、それでもこういう形で金を払う必要があるだろうか、と言う。一軒で金を払うということは、他の家を見るたびに同様の金を要求されるということで、家屋調査は成立しない。が、これは後の祭りで、結局この家を見学することはできなかった。後で知ったことだが、この家主は現村長選挙の際に立候補して破れた、いわばこの新村長(彼はインドネシア人らしからぬ清廉潔白な金の使い方をし、また旧村長の汚職についてさんざん聞かせてくれた)とは犬猿の仲であるからして、村長が見ているだけだったのもわかる。そうとはじめから知っていれば、強引にねじ込んだものを。逃がした魚は大きいという喩えあり。
 しかし、Jopu 独自の家屋形式は、この Lio 一般型の Sao Ria ではなくして、Sao Banga という。この住民たちによってプラフ型の屋根の家屋と考えられている蒲鉾屋根の家屋だ。かつて、一般住民のほとんどは Sao Banga だったというが、いまは Kam.Jopu と Kam.Rangase に各1棟残るのみ。Kebo という穀倉もかつてはこの蒲鉾屋根を載せていたらしい。が、いまはやはり2棟残るだけで、他は寄棟。これに対して、Bhaku(納骨堂)は Sao Ria 型の長大屋根を架したもので、いまでも多く残る。Moni の Bhaku との違いは、Peti(木箱の棺)の置き場所が Jopu では上から吊られていること。もっとも、Moni の Bhaku、Kebo はどこまで原形を残しているか不明だが。

洗骨再葬風習:死体はいったん埋葬された後、数年経って儀礼とともにこれを取り出し(儀礼の費用が大きいため、特定の者しかこれを成就しない)、洗った後、布でつつみ、木箱に移して Bhaku に置く。あるいは、死体をアレン(サトウヤシ)の幹でつくった棺桶に容れ、ブリンギンの木(榕樹/ガジュマル)に吊して風化させた後、木箱に移す、という者もあり。





巨石広場にあるセン葺きのBhaku(納骨堂)とセメントでかためた十字架付き墓

蒲鉾屋根のSao Banga 駄々をこねた翌日はご機嫌麗し




実測図:Lepa Benga 平面



12月28日(日) 晴のち曇  Jopu
 Kam.Rangase の Sao Benga 実測。実測にのこのこ出かけたところ、昨日入れてくれた家の主である女性が内から閂をかけ、許可しないと駄々をこねる。言うには、昨日主人の許可なく家に立ち入り写真を撮った。で、彼女はヘソを曲げ、金を出せだの、入れないだの。2時間、外で作業ののち、家主は裏口から出て畑へ逃げたというし、集まってきた村人たちと口論のあと、裏口から押し入る。実測をはじめてしまえば、誰が文句を言おうと知ったことじゃない。鬼よりこわい調査許可証がある。
 のちに得た情報によれば、彼女は未婚で、正当な家屋相続者となり得ず、親族のあいだで田畑、家屋をめぐるいざこざがあり、Suku長のあずかり、という形になっているとか。彼女がヘソを曲げたのも当然といえば当然で可哀想。
 例によって昼食抜きで夕方まで作業し、引き上げる。




実測図:Lepa Benga 梁行断面



12月29日(月) 晴のち曇  Jopu
 昨日の続き。きょうはご機嫌麗しく、昼食(キャッサバとご飯のお粥)を出してくれた。そのかわり、村長宅で朝食はバナナ1本と茶。昼抜きでも、朝ちゃんと食べねば作業はできぬ。すっかり肉体労働者の身体になった。
 午後より Rangase の スク長(mosalaki)の Sao Ria 実測はじめる。
 村を歩いていておもしろいのは、こんな辺鄙な土地なのに、よく世界一周ですか?と訊かれることだ。気宇壮大というか、井の中の蛙というのか、世界の広さと自分たちの置かれた位置を知らない。





実測図:Lepa Benga 桁行断面



12月30日(火) 晴のちスコール  Jopu
 Sao Ria 調査。当主家族は午前と午後にココアとクッキー、昼食には鶏を殺しふるまってくれた。いたれりつくせりの気持ちよい調査。こちらの質問には律儀に、正直に答えてくれる。今年10月の屋根葺き替えに際して、豚9、馬4、羊1、犬4、鶏30羽を殺したというだけあって、かなり裕福な家柄。
 夕方より激しいスコールで、ぬかるみのなかを Jopu の村長宅へ戻る。








スコールにけぶる巨石広場



12月31日(水) 晴のち曇  Jopu
 午前中、Sao Ria の調査。この日も鶏を殺し、昼食をご馳走になった。午後、穀倉2時間の実測。Jopu に戻り、夜8時まで Bhaku の実測。
 大晦日。あすは新年。本来なら今頃 Timor の Kupang のはず。近隣のガキども多く村長宅にあつまり、画面の見えない声だけのテレビを見つめる。9時過ぎ、疲れたならどうぞお休みください、と言われて寝袋にこもる。やがて、カセットを弄っていた村長は外部スピーカーとの接続を終えたらしく、騒々しい歌謡曲が明け方まで村中を騒がせた。かぎられたテープを繰り返しかけるので、どうにか眠りについても、目が覚めると同じ曲が執拗に鳴る。明け方5時にようやくこの喧噪がおさまり、ここではじめて、これは新年を迎えるための新しい儀式なのだと気が付いた。
 現在、1円は約10RPだから、日本での物価を説明すると桁外れに高くなってお話にならない。1kg350RPという米の値段は、日本では2500RPになってしまう。ところが困ったことに、村人の多くは換算レートがその貨幣のもつ価値だと認識しているから、例えば1円は10RPである。だから、日本人はインドネシア人より10倍豊かである。これはまあよいとしよう。1ドルは1600RPもする。だから、米国人はインドネシア人の1600倍も豊かである。このドルには日本の円もかたなしで、1ドル160円ちかいから、米国は日本よりまだ160倍豊かである云々。彼らの頭はカタイから、そう思いこんでいる人間にいくら説明してやったところで、本当の理解には至らない。
 また、こういうのもある。村にはいって、世話になっている家で済まなそうにご飯を出す。パンはありませんけど、こんな粗末な食事でよければどうぞ。日本人は(先進国は)パンとチーズを食べるものだと思っているのだ。同じように、ここでは木造の高床家屋は貧しい未開人の住まいであって、セメントの地床家屋が発展した、つまり先進国の住居であるという了解があるから、当然、日本の家屋は地床のセメント(石)造家屋のはずであると彼らは思っている。それで、日本人は高床の木造住居ですよ、と説明するのだけれども、彼らの現在の粗末な木造以外に木造家屋というものの概念のない彼らにとって、いくら説明をくわえたところで理解には及ばないだろう。

 こうして、この一年は終えてしまった。





実測図:Kebo 穀倉

実測図:Bhaku



1月 1日(木) 快晴  Nggela













元日の記念写真。Jopuの若き村長(背後)は数年前に死亡。毒殺の噂も、、



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3月 3日(火) 晴 Wunga
 スンバでは荷物を背負って山歩きをすることはもうあるまい、と考えていたのにまた歩く。クパンで買った12,000RPの靴は底が半分剥げてヒタヒタ音をたてる。これをボンドでくっつけ、バンドンまでもってください、と念じながら再び歩く。
 スンバで車に乗って引き回されることはもうない。7時に乗ったトラックは荷台がガラガラにもかかわらず町を出た。快調。大きな川を2度渡り、Kadahang 到着は9時15分。村長とラジャに報告。長期滞在中の小池氏が同行だから面倒なことはいっさいない。村は飢饉で食物なく、村人は山芋をさがして食べているという。ラジャの家で食事をふるまわれているうちに午後2時になり、供の者を一人従え、村へむけて出発。道は、太陽の直射をさえぎる木もないということを除けば、比較的平坦で楽。約3時間半かかってWungaに到着し、シリ・ピナンのふるまいなどを受けているうちに夕暮れとなり、実測をはじめることができなかった。
 東スンバの人口密度は極端に低い。Kadahang から Wunga まで、村といえる程度のものはない。雑草のおいしげる珊瑚岩だらけの土地で、水が少ないために農作物の収量は低い。雨のかげんでトーモロコシの収穫がおくれると、途端に飢餓の季節に突入する。
 Wunga は丘の中腹にある20棟ちかくの慣習家屋からなる村。村の敷地自体、珊瑚岩が荒い地肌をみせていて、村の建設にふさわしい土地とはいえない。西スンバでは壮麗なドルメン群も、ここでは平滑な岩が入手しにくいためか、このゴツゴツの珊瑚岩を切り出したもので、レリーフは不可能だ。いくつかの古い遺物が残るけれども、この土地の気風も同じで仕上げはきわめて粗い。竹以外に建物に適当な木が近くで得られないこともあって、主柱を除いては頻繁に改修を繰り返してきたものとおもわれる。このなかから、Waimolu という一棟を選んで実測に決定。ラジャ所有の Prain 家も古いが、家屋横にバレ(付属屋)のつく特異な形式。あきらかな後年の追加だが、これもアダットで古い形式に従っているだけと言われれば返す言葉はない。アダットもつぎつぎ塗り替えられる。最近は外国人に金を要求するアダットが多い。




Wunga村で過酷な調査実施中の小池誠氏

KadahangからWungaまでの道中に点在する小集落



3月 4日(水) 晴 Wunga
 家屋実測、写真撮影に一日費やす。天井裏にのぼった汚い身体も、マンディ場がなく、そのままで寝る。カユイ。クサイ。





3月 5日(木) 晴 Mondu
 Waingapu 行きのトラックが来る日で、今日をのがすと土曜日まで Waingapu へ戻ることができなくなる。5時起床。実測の続き、写真撮影を終え、あわただしく8時に村を出発。作業の不完全な部分はあとで小池氏に訊ねるしか方法がない。Kadahang まで道に迷いながらも休まず歩き通して、2時間半で Kadahang におりる。
 しかし、トラックは現れなかった。一度村をおりてしまった以上、なんとしても Waingapu へ戻るしかない。Kadahang で遅い朝食をとり、ラジャの家に残る小池氏と別れ、Kapunduk に向けて歩く。Kapunduk には市役所の支部があり、ここでこの役所長に頼めばなんとか Waingapu へ行く車が見つけられるだろう。
 Kadahang から Kapunduk まで約6km。休もうにも木陰もなし。水で濡らしたタオルをかぶってひたすら歩く。約2時間かかって Kapunduk 着。役場前の広場は閑散として車一台、人気もない。定期市場になるはずの露台に腰をおろし、しばしボーゼンとする。話しかけてきた男は、この市場横に小さな店を構えるスンバ人で、スプライト、ファンタ飲まないかね。ビスクエもあるよ。これでは水を頼むこともできない。役所長はクパンに行っていていない。セクレタリスもいない。役所はすでに閉まっている。見わたせば、車はおろか、オートバイすら通る気配もない。露台上には数名の村人が無関心に横たわっている。無気力だけがこの場を支配している。
 この露台で一夜をあかすか。さりとて、一夜をあかしたところで Waingapu 行きの車があす来るという保証はない。それならば歩いてでも Waingapu へ近づいたほうがよい。Waingapu まで約50kmだから、歩けば明日中には着くことができる。疲れてはいるがこうなった以上、他に手段がないのだ。隣村の Mondu までは約10km。急げば1時間半、俺は1時間で行ったことがある。などという時計も持たない村人の話を信じる気にはならないけれど、4kmくらいかな、とはかない期待をいだいて再び歩きはじめた。
 道は平坦で問題はない。暑い太陽もすでに西に傾いた。背中の荷物もさして苦痛ではない。しかし、底のうすい靴で荷物を背負って石だらけの道を歩き続けた足の裏がすでに腫れあがって歩くたびに痛い。スピードはだせない。Mondu に着いたのは約2時間半後で、この間、家らしい家すら出会わなかった。足はほとんどいうことをきかない。ヒカラビタようになって村にはいり、最初の家で水を所望する。Kadahang で遅い朝食をとっただけだが、水を飲みすぎたので食欲はない。
 村長宅まで行くために大きな川を渡る。靴をぬぐと針の山を歩くような案配だ。ここの村長宅の板床の上にティカールを敷き、よく煮え切らない砂利のようなご飯を食べる。Wunga での実測後、マンディもしていない身体でもう一泊する。まるで兵隊だ。蚊がかまびすしく飛び交っている。
 Wunga を朝出発してから7時間歩いた。足が火照って熱い。




実測図:平面

実測図:断面

実測図:断面



3月 6日(金) 晴 Waingapu
 6時50分、コーヒー一杯を飲んで Mondu 発。途中で非常用に持参した牛肉の Abon(田麩)を食べ、道中の喉の渇きを癒すため、コサンビの実をひろって袋につめる。約15km離れた隣村の Hambaplain まで行けば、Waingapu 行きのベモが見つかる。
 足の裏の鬱血はひかず、歩きはじめる以前からすでにビッコ。途中、緩傾斜の坂をのぼることができず、何度も休み、それでも歩く。歩かなければ何もおこらない。人っ子ひとりいない。木陰ひとつない。砂漠のような道を、時々泣き声をあげながら歩く。
 Hambaplain 着10時。Waingapu 行きのベモはつい先刻村を出た。今日はもうない。水を頼んだ小学校の先生の家で休憩。食事をふるまわれ、どうにか Waingapu 行きのオートバイをさがしてもらって、半死半生で Waingapu に戻った。
 夕方、どこから聞きつけたのか、コパリヒはまたあらわれ、食事を食べて帰って行った。寄生虫のように。





コサンビの実



私の2年間のインドネシア・フィールドノートはここで終わっています。この後、翌3月7日には、東スンバ県の Waingapu から西スンバ県の Waikabubak へ向かうバスに飛びのり(当時5~6時間の行程)、Wanokaka、Anakalang で短期の調査と家屋の実測。3月12日にバスで再び Waingapu へ舞い戻り、翌日にはスンバ島を後にして、滞在拠点にしていたバンドンへと飛び立ちました。インドネシアを離れるのはそれからおよそ1ヶ月後のことです。



フルACならぬ恐怖のフルミュージック付き長距離バス