『アジア読本 フィリピン』河出書房新社 1994年5月 pp.67〜74

ボントックの家づくり



 長距離バスの屋根から土埃にまみれた荷物をおろすと、広い通りの左右にはりついた薄っぺらな商店の列に向けてあるきはじめた。はじめて目にするボントックの町は、どこか西部劇のセットをおもわせる寂寥とした雰囲気をたたえていた。ときおり長距離バスやジープニーが土埃を舞いあげてはしりさると、そのうしろから、着たきりの赤褌にTシャツをまとい、ソクロンという竹製の小篭を頭にかぶった老人が、長い槍を手に闊歩していた。町なみの背後に目をやると、荒れはてた棚田のそこここに、豚を飼うための石積みの穴(それが便所をかねていることをあとで知った)に囲まれて、茅葺きの民家が点在していた。時代設定の狂った舞台にほうりだされたかのような現実感の喪失が、この町のすみずみを支配していた。


M村

 ボントックはルソン島の北部山岳地帯をおおうマウンテン州の州都の名で、私のいたM村は、この町からさらに数時間ほどあるいた山あいに位置していた。ボントック族は視界にはいるかぎりの山の斜面をすべて棚田につくりかえていて、棚田の縁の細いあぜ道づたいに、右へ左へつづら折りにつらなる村へのアプローチには、ときおり白くかがやく波形トタンをかついだ男の姿が遠くからも目撃された。
 当時のM村には、すでにトタン屋根と規格化された部材から造られた、あたらしい形式の高床住居が多くなりつつあったが、それでもまだ四〇棟ちかい茅葺きの民家がのこされていた。しかし、おなじように見える茅葺民家でも、所有者の経済的、社会的な立場に応じて、じっさいには四種類の家屋形式が混在していた。
 ボントック族は東南アジアのなかでも例外的に高床居住をしない民族にあげられている。ところが、もっとも格のたかいフィナルイという形式の家屋には、内部に四本の柱でささえられた高床構造がかくされていた。不思議なことに、この高床空間は収穫儀礼にさいしてつかわれる以外には機能的な意味がなく、住民はせっかく築いたその高床の下で土間生活をおくるのである。このきわめて特異な形式の家屋を、わずか二ヶ月という調査期間のあいだに建設してしまおうというのが、私たちの調査の目的であった。
 日中でも薄暗いフィナルイのなかに足をふみいれると、わずかな空間に所かまわず吊りさげられたぼろ布のような衣服のあいだから、地上におかれた木製のベンチだの、臼や米櫃などの家財道具が見えるようになる。炉からたちのぼるススのために、これらは一様に黒くそまり、湿気をふくんだ重苦しい空気が室内をみたしている。住民は部屋の奥にしつらえらえた小箱のような寝室で、土のにおいにつつまれながら眠るのである。むかし、結婚前の若者と老人たちは、穴蔵さながらの男宿や女宿で寝泊まりするのが常だったが、その風習もあたらしい家屋の出現とともにしだいにおこなわれなくなっていた。
 ところが、若者たちが見向きもしない伝統家屋にも、因襲的なヒエラルキーだけはのこされていた。しかるべき地位の人間が、必要とされる儀礼をとどこおりなく実施して、はじめてフィナルイの所有者となれるのである。これでは、窓や家具をそなえた自由で快適な空間の住宅に若者たちの目が向いてしまうのも仕方がない。そのうえ商品経済の発達した今となっては、フィナルイの建設にともなう相互扶助のわずらわしさや、度重なる儀礼のさいに供犠せねばならないブタやニワトリの出費もばかにならなかった。
 私たちの施主をかってでてくれた若者のGもまた、当然のごとくトタン屋根の家に住みたがっていた。Gの説得にはなんとか成功したものの、Gにはフィナルイの施主としての社会的地位や声望に欠けていた。そのため、Gのかわりに父親のFが名目上の所有者となることで、はじめてフィナルイの建設をすすめる条件がととのったのである。


山での仕事

 そのFが山に入り、一本の松の木を切り倒すことからフィナルイ建設の作業は開始された。
 ベンゲット松は村の周囲の山林に満ちていたから、木材の採取は比較的容易にみえたが、板の製材には想像以上の労力がかかることがわかった。むかしは楔をうちこんで丸太を二つに割り、チョウナで表面を削り落として、一本の丸太からたった二枚の板を得るだけだった。ところがこのやりかたでは、朝から山に入り、午後になってようやく平らに仕上がった厚さ一〇センチちかくもある板を一枚かついで山を降りると、一日が暮れていた。そのうえ板に用いるほどの大材をさがすことは容易ではなくなっていたから、途中から鋸をつかうことに方針変更を余儀なくされた。これで一本の丸太から十枚ちかい板を採取することが可能になる。もっとも、こうすれば作業効率もあがるなどとかんがえたのは大きな誤りで、弓張り式の大鋸を持ちだして二人がかりで生木を挽くのに、やはり一日に二枚の板を得るのが限界だった。なにしろ大鋸を挽くのはさすがの村人も嫌がるほどの重労働で、頻繁に目立てをやり直し、油をぬりこんでも、刃先はたちまちおもくなった。
 家屋の中央に掘立てられる四本の柱には、おなじ松でも樹脂分の多い材質の黒い老木を使うことになっていた。まれにしかみつからないこうした木をもとめて、何日も山の中を歩き回る余裕はなかったので、廃屋の跡地にのこっていた柱を転用することで済ませた。松の廃材とはいっても、チョウナで表面を削ると、新材同様の黒い輝きをとりもどし、地中部分にもほとんど腐れがみられないのも新発見だった。
 家屋の建設には、松のほかに、屋根葺材のコゴン(茅)とコゴンの骨組みになるロノ(一種のススキ)、それにこれらを縛るための籘が必要だった。ロノは村から遠くないところに群生していたので、数人がかりで一日あれば十分まにあうだけの量があつまった。籘のほうは蛭のいるジャングルに採集にはいることをだれもがためらったので、籘のとれる村まで二日がかりで買い出しにいかねばならなかった。こうして、材料となる木、ロノ、籘は建主の側で用意したが、コゴンをあつめるのは村全体の共同作業になった。建物の構造材がそろい、ロノと籘の準備が済んだ段階で、コゴンの採取日が決められた。村人たちはめいめい裏山に繰り出して、一家族に二束ずつわりあてられたコゴンを採集した。この作業に携わるのは多く女たちだった。彼女たちは刈ったばかりのコゴン束を頭にのせて、棚田のあぜ道を村にもどってきた。Gはコゴンを運んできた村人について克明なリストをつくっていた。じっさい何家族かはこの相互扶助の慣習に違反していたのである。トタンの屋根にかえてしまった家では、いまさらこんな協力関係をまもることに意味はないからだった。


建築儀礼

 この段階まで山で切りだした材木は、村には運ばれずに山の中腹に置かれていた。山で切り出した材を村へ運ぶのにも儀礼が必要とされたためだ。儀礼は、場所をかえるとか何か新しい仕事をはじめるとかいうときには、かならずおこなわれた。こうした儀礼が、自然に対する日常的な態度であることに気づいたのは、ずっとあとになってからだった。村のテリトリーにはいるとき、山林から耕作地にうつるとき、目的地に一直線にむかおうとする私をなだめて、あたかも環境の変化に体をならすように、村人たちはいつも一定の場所にくると休息した。あたらしく家屋を建設するといった、以前とは異なる環境をつくりだしてしまうばあいにも、村人たちがもっとも関心をはらっていたのは、じつは、山野の精霊や、人間同士の既存の関係をいかにして損なうことなく維持していくかという点だった。動物を供犠し、儀礼をおこない、その後休息して吉兆をあおぐ。その判断の正否は私の理解をこえていたけれども、すくなくとも儀礼の手続をふんだという事実は、他の村人にとって有無をいわさぬ力をもっていたようだ。
 かくて、儀礼と休息日のくみあわせが、住居の建設のあいだにいく度となく繰り返されることになった。儀礼のたびごとに供犠する動物をもとめねばならない手数や、かぎられた調査日程のあいだになんども儀礼や休息で作業が中断されることに、私はいらだちをおぼえた。私たちの調査の目的は建築過程の技術的側面にあり、対象はあくまで個人の住宅にすぎなかったが、気がついたときには、背後に張りめぐらされた網の目のような文化の根にからまり、村落社会全体を相手にせねばならないはめにおちいっていた。



骨組み

■動物の胎児が発生の途中で進化の過程をくりかえすように、建設中のフィナルイには、四本柱でささえられた高床住居の段階がある。それも屋根を葺き、壁をめぐらせてしまうと、一見ただの土間式住居にかわる。

大工

■目的をねらいすまし、リズムにのってホゾ穴をあける。そのために使われる刃先の細い斧は、刃先を差しかえるとチョウナにもなる。


屋根下地

■一列にならんで屋根パネルをこしらえる。スティックで簾をつくり、茅束をむすびつけてできあがった屋根パネルは、全員でかついで屋根まではこばれる。


屋根葺き

■茅パネルを一気にひきあげて小屋組に固定するだけで屋根は完成する。フィナルイ一棟分の屋根を葺くのに、茅パネルが六枚いる。

完成祝い

■村をあげての盛大な完成祝。しかし、儀礼のために供犠するブタをもとめて、悪戦苦闘がつづいた。なぜなら、村で飼っているブタは、みなあらかじめ供犠される儀式が予約されていたからだ。


完成

■完成したフィナルイのやけにきれいに整った外観からは、生活臭を期待させるものはなにもなかった。


村での仕事

 村に運ばれた材木をもとに、村の教会の前庭で四人の大工による加工と仕上げがはじまると、建設作業じたいはずっと見とおしのよいものになった。本来、大工という特別な職業がボントック族のもとにあるわけではなかったが、最低限の工具をもち、技術にすぐれ、しかも伝統的な建物についての知識のある人間となると、かぎられた者しかいなかった。ある夜、大工の棟梁をつとめることになったNによるチョウナ始めの儀式がおこなわれた。儀式といっても、ただひとり現場におもむいたNが、梁となるべき材木にチョウナで一太刀あびせるだけのことで、翌日からさっそく作業が開始された。
 ここで仮組みされるのは、家屋の軸組にあたる四本柱でささえられた高床構造と、そのうえに載る屋根の基本的な骨組である。材同士の接合に釘をもちいることはなかったから、大工作業の大半は部材を組みあわせるための仕口の加工についやされた。ふつう部材の加工には切るとか削るとか叩くとかいう作業がふくまれるものだが、ここではそれらの作業をすべて斧(とチョウナ)だけでこなしていた。ホゾ穴をあけるのにも、刃の細い斧をたくみに打ちおろして、市販の鑿をつかうのとかわらないくらいの精度で仕上げるのである。しかも、この斧は柄についた刃先を九〇度回転させることでチョウナにも変化した。村人たちが鋸や鉋や鑿のかわりに斧だけをつかうのはじつに単純な理由からだった。村では斧にもちいる鉄製の刃を、自動車の板バネから容易に自作していたのである。
 数日のうちに高床の軸組は組みあがり、そのうえに棟持柱をたてて棟木を固定するまでになった。そこまで仮組み作業が済むと、あとは場所を移して実際の建設にとりかかるばかりとなる。教会の前庭で大工による簡単な儀礼をすませてから、ふたたび部材は解体されて、家屋のたつ敷地へと運ばれていった。
 山間にある村の領域には、これ以上あらたな家屋を建設するだけの空間がのこされてはいなかったから、水田に接するようにしてある村はずれのサトウキビ畑があたらしい家屋の敷地として用意されていた。まだところどころに刈り残した草のおいしげるなかに、住居の軸組がみるみるたちあがってゆく。そのかたわらでは、ニワトリやイヌなどの家畜が入居まえの家に近づかないように、焚き火がたかれていた。
 高床が首尾よくたちあがったことで、村人たちは、その翌日に屋根葺がおこなわれる予定であることを知った。共同体の成員が、屋根葺という共通の目的のためにあつまり、家づくりに参加することで、かつての村落空間は形成されてきた。トタン屋根の普及は、家屋の建設からこうした共同作業の機会を確実にうばいつつあったが、屋根葺が家屋建設のハイライトであることにかわりはなかった。
 翌日、早朝からあつまってきた村人のなかには力仕事のできない老人も多くふくまれていた。それでも老人なりに建設現場の脇に腰をおろして、茅を固定するための紐をこしらえていたし、女たちは建築作業には参加しないかわりに、屋根葺後にふるまわれる食事の準備にかりだされていた。屋根に茅を葺くために、ここではあらかじめ地上でスティックの簾をつくり、茅を縛りつけて大きな茅パネルをこしらえるのである。こうすれば、日本の茅葺屋根のように屋根の上でいちいち茅束を固定しなくても、地上で仕上げた何枚かの茅パネルを、一気に屋根にひきあげるだけでかたがつく。
 屋根さえ葺きあがってしまえば、残された仕事は外壁と屋内の設備だけで、ダイナミックな環境の変化はもうない。けれども、いくら物理的に建物が完成しても、それだけでは社会的に家屋が認知されたことにはならない。建設によって不安定な状態にある家屋を村落空間のなかに無事着地させるために、完成まぎわまで執拗に儀式(軒先を切りそろえる儀式、入居式、完成祝)がくりかえされることになった。家づくりとはこうした手つづきを丹念に積みかさね、ゆるやかに、破綻なく既存の空間の一部にべつの空間をビルトインする作業であった。
 村をあげての完成祝がおこなわれたとき、仕事始めの儀式からおよそ四〇日がすぎようとしていた。


十年たち……

 今から十年ほどもまえに、はじめてフィリピンの民家調査にかりだされた。そのころ私の所属していた建築史の研究室では、「伝統」をめぐる論議がさかんにおこなわれていた。伝統を現在に継承されているところの総体ととらえることは、何もかんがえるなといっているにひとしい。社会的な機能もふくめて、伝統建築を生きながらに保存できるはずはなかったが、それにしても、残すなどという受け身な態度ではなく、現代の設計活動に対抗できるような、攻撃的な理論がもとめられていた。多くの動物がそうであるように、巣作りが生活の一部であり、巣作りの経験をとおして、個人が社会によってしか実現できないものであることを理解できるような社会−建築が共通の表象として存在しうることを保証する地平が、「伝統」社会にはあるのではないかと期待した。
 この話に結末はまだない。フィナルイは多数の村人のエネルギーを吸いこんでようやく完成した。ところが意外なことに、村はずれの敷地で、妙によそよそしくこぎれいにととのった外観をさらしつづける姿には、生活臭を期待させるものはなにもなかった。まるで、ひとつの社会をまきこんでおこなわれた実験の、いくぶん時代錯誤的な成果にたいする、最後の抵抗ででもあるかのように。
 あれから十年たち、ボントックの町も、M村も、そして埃の粒子の舞うなかにいつもきらきらと輝いているかのような住人たちの姿も、むかしのままではないであろう。F老人はすでに亡く、実質的な所有者のGからは家屋の屋根をトタンに変えて欲しいと催促の手紙がきた。期待は裏切られることのほうが多かったが、私はといえば、それでも十年一日のごとく、こうした民族調査にのめりこむことになった。
 茅葺きからトタン屋根へ、機能性や経済効率をもとめて進行する近代化のプロセスのなかで、村落単位の小さな共同体は解体され、貨幣経済をとおして国家という中心のまわりに統合されようとしている。それはたんにボントック社会の問題であるばかりではなく、世界中で、伝統的な民家が保証してきたコスモロジカルな空間の共同性は、存立基盤じたいから崩壊をとげつつある。いつか家屋もまた自動車のように、純粋な商品経済の論理にしたがってつくられるときがおとずれるかもしれない。そのとき、空間は永遠に私たちの手をはなれ、いつも不確定で、押しつけがましく、未知なままに、私たちの身の回りを侵食しつづけるのだろうか。

1993-07-17 (Sat) 01:04