月刊みんぱく 14-1 1990年1月号 pp.15〜17

私的民族建築学入門


 今から一〇年以上も昔の話になる。当時、建築の学部を出たばかりの私は、ある設計事務所に就職して建築家への道を志していた。建築家というのは、特定の個人なり集団なりの意向にしたがい、彼(ら)の存在様態に実在の形式をあたえてやることをなりわいとする人格である。今の私ならそう答えるところだろう。しかし、朝から夜までを製図版にむかい、ひたすら鉛筆をはしらせて形の操作を繰りかえしていても、頭のなかにまっ白な霞がいっぱいに広がってゆくのを感じるばかりだった。やがて建築史の勉強のために大学に戻った私は、フィリピン・ルソン島の山岳民、ボントック族のもとでおこなわれる予定の調査に誘われ、そこではじめてのフィールドワークを体験することになった。
 それまで民族学にかんする素養の皆無だった私にとって、異文化との接触を否応なく意識させられる事件が入村したばかりのM村で待ち構えていた。M村は州都ボントックの町から歩いておよそ一時間ほどの山あいにある。ボントック族の祖先たちは視界にはいる限りの山の斜面をすべて階段状の水田に作りかえる芸当をなしとげていた。苗つけまえの棚田は静かに水をたたえて、全体が鏡をはったようにかがやく山々のあいだを、畔づたいに蛇行する道をたどりながら私たちは村に到達した。入村の儀式がおこなわれたのは同じ日の夜のことである。
 車座になってすわる村の男たちは水浴によって身体を清めるという習慣をほとんどもたなかった。体は沈着した垢と脂で赤茶色にひかり、老人の多くは身体に同化したかのような着たきりのフンドシとTシャツを身にまとうだけだった。座の中央に米を発酵させてつくる酒のはいった壷がおかれていて、竹篭の蓋をあけると、壷のなかからいましがた孵化したばかりらしい無数の小蝿がいっせいに飛び立っていった。ヤシ殻でできた椀でなかの酒をかいだし、一座の全員が順番にこれをまわし飲みにするのである。伸びきった耳たぶの穴に煙管をさした男が、最後にのこった私に微笑みかけながら酒のはいった椀をまわしてくれた。酒と唾液でかわくいとまもないのであろう。口にはこんだ椀はねっとりと重かった。
 その場を辞するやいなや私は携行したさまざまな薬品類のなかから赤痢の予防薬をえらびだして飲んだ。しかし、そんな抵抗もはじめの数日で終わった。このような機会は村の生活においてほとんど日常的におこっていたからである。今も鮮烈に記憶にのこるこのときの経験は、文化的な不適応によるカルチャー・ショックというよりも、彼らの産業技術的な未開さの程度に衝撃をうけたにすぎないのであろう。けれども、そのようにして未開のなかに馴化されてゆく私自身を発見するのは新鮮な驚きだった。




フィールドワーク
■はじめてのフィールドワーク

M村
■M村

屋根下地
■屋根下地の作成。このうえにチガヤを結びつけ、出来あがったパネルもろとも屋根面に固定する。

トタン屋根を望む施主

 私たち二名がM村にはいったのは一二月のはじめである。これからわずか二ヶ月のあいだにできる限り伝統に則った仕方で、ボントック族本来の伝統家屋を建設してしまおうというのが私たちの調査の目的であった。家屋建設の打診は事前にしてあったものの、現実の作業の方はなにひとつすすんでいなかった。
 ひとくちに伝統家屋といっても、M村にはグレードの異なる数種類の家屋形式が混在していた。もっとも上位にランクされるフィナルイという名の家屋形式を私たちは望んでいた。フィナルイは高床構造を内部にもちながら、居住者は高床下で土間生活をおくるまったく特異な様式の住居だった。ところが、もっとも上位の、ということは、伝統的な儀礼のための施設をそなえ、伝統的な儀礼の手順にしたがって、村人の相互扶助で建設される家屋が、同時に現在もっとも人気のある家屋というわけではなかった。私たちの施主をかってでていた若者のGは、むしろトタン屋根と規格化された部材でできた近代的な高床住居に住みたがっていた。霊界との対話を前提とするフィナルイのあまりにフォーマルな性格の空間構成よりも、窓や家具をそなえた自由で気ままな空間の方が日々の生活において快適なのは自明であったし、フィナルイ建設にともなう儀礼のたびごとに供犠せねばならないブタやニワトリの値段(それすらもすでに商品的価値をもつのであるから)をかんがえれば、相互扶助はけっして安くはないというわけであった。それになによりも、社会的な認知の点でGはフィナルイの施主としての声望に欠けていた。
 ともかく私たちは近代的なバラックの建設にここまできたのではなかったから、Gの父親のFに援助を請うことになった。村には一〇棟にのぼるフィナルイがのこされており、Fはそのなかのひとつに現に住んでいたのである。一二月初旬のある日、Fによる仕事始めの儀式がとりおこなわれた。Fは赤いフンドシに濃紺のTシャツ、それにどこから手に入れたのか、こげ茶の背広と黄色いビニールの鍔付き帽子といういつもながらのいでたちであらわれた。平地を歩くときのFはぎこちない老人そのものだったのに、山道になっても歩行の速度はいっこうに衰えをみせなかった。松の自生する山林まで達すると、Fは木樵とともに適当な木を求めて林のなかにわけいって行った。私たちは近づくこと禁じられ、遠くから松を切り倒す彼らの様子を見まもった。儀式といってもたったそれだけのことだった。Fはまっすぐに家に戻っておとなしく床につき、翌日までになにも凶兆がおきないことを願うのである。翌々日から材料集めの作業が開始され、ようやく家屋の建設は軌道にのりはじめた。




フィナルイ完成
■棟梁が時期をみて軒先をきりそろえると、フィナルイは技術的に完成する。あとは完成祝いの儀式を待つばかり。

ブタ供犠
■ブタは社会的に重要な動物である。泣き叫ぶブタが到着し、はがいじめにされて、ためつすがめつ喉元をグサリとやられる瞬間は儀礼のハイライトだ。

儀式にブタは不可欠

 つぎに私たちの頭を悩ませたのが、家屋の完成後に供犠されるブタの手配だった。フィナルイの竣工祝いともなればそれ相応の大きさのブタを用意せねばならなかった。Gはそうしたブタを所有していなかったので、町の市場まで捜しに出かけることになった。ところが、そううまいこと適当なブタが見つかるはずはない。Gは持参した金を使いこんだうえ、とうとう手ぶらでかえってきた。村の生活にとってブタは必需品である。それはけっして食用ではなくて、結婚式や葬式といった儀式にブタは不可欠な供犠獣だからである。親の死や子供の結婚という事態にそなえて、村人たちはかならずブタを飼育していた。私たちは村にいる大ブタを数えあげ、そのなかですでに用途の定まっているブタをのぞいて、のこりのブタの持ち主たちと交渉にのぞんだ。交渉はなかなか進展しなかった。なぜならブタを売り払うことは非常に不名誉なこととみなされていたからである。金に困ったある男がようやく私たちの申し出を受けいれ、彼のブタを手ばなす覚悟を決めた。しかし、それでも彼はブタを貸したことにして彼の体面をたもつように求めたのである。
 私たちの調査の主題は建築過程の技術的側面にあったのだが、そうした苦労から比べると、家屋の建設自体はルーティン・ワークにすぎなかった。あたらしい家屋の建設というまったく以前とは異なる環境の形成にあたって、住民たちの最大の関心は、霊魂や人間同士の既存の社会関係をいかにして損なうことなく維持していくかに集中されていたようにみえる。ともかく、村の社会を巻きこんだ私たちの壮大な実験は期限内に無事終了して、完成した家屋は棚田に近い村はずれの地で、ふたたび訪れた静寂のなかに埋没するかのように佇んでいた。生活臭を剥奪された形式的で妙によそよそしい建物の姿に、私はこの調査のために過ごすことのできなかった日本の正月を思い出していた。
 私にとってはじめてのフィールドワークはこうして終わった。帰国後、ただちに私は高熱を発し、黄疸に見舞われた。急性肝炎の洗礼だった。さらに1年ほどして、今度は20pほどに成長した回虫を便器のなかで見いだした。しかしそれでも、大学生活がしだいに切羽詰ってゆくにつれて、M村の強烈な印象も私の意識のなかでしだいに現実味をうしない、遠い過去の記憶の一部に埋もれていった。




F
■今はなきF。建築現場にやってきては夜間の照明につかうマツの木屑をあつめていた姿が目にうかぶ。

手紙の最後の一行

 ある日のこと、私はノートを引き裂いて書かれたよれよれの手紙を受け取った。湿りけを含んだような手紙の感触は、一瞬私の脳裏にM村での生活をありありとよみがえらせた。村人たちはよく小学生に支給されたノートを破りとっては、この粗悪な紙片を用いて紙巻タバコを吸っていたのである。手紙の発信者はGであった。私たちののこしてきたくだんの家屋は伝統にしたがい屋根をチガヤで葺いてあった。チガヤが傷むので屋根をトタンで覆いたいからその費用をなんとか工面してくれ、とその手紙は訴えていた。読みにくい筆記体の文章は私を苛立たせた。せっかく古い形式をのこして作りあげた家屋に陳腐な工業製品の上塗りをする手助けを私にしろと手紙の主は要求しているのだ。あるいはかつてのGがそうだったように、また使いの金をくすねて博打に興じたいという程度のことだろう。そう多寡をくくって手紙を読み進んでいた私の目は、最後にさり気無く書き添えられた一行に釘付けになった。父親のFが自ら首を括って死んだ。事実の報告だけが何の説明もなくそう記されていた。
 寡黙な老人だったF、私たちが8ミリカメラを構えているとそっと傍によってきてその場でおもむろに作業をはじめる彼は、けっして自分の方から被写体に入るような真似はしなかった。自殺は日本でかんがえるほど社会的に認知された行動ではなかったし、彼の姿にそのような意志力を結びつけてみることは私にはどうしても困難だった。私たちが経済的な負担をしたにせよ、屋根をトタン葺きに代えようとGが画策している家屋は、Fの責任において建設されたものだった。家屋の所有者であるGはおそらく建設後、この家に住むことはなかったであろう。Gははじめからトタン葺きのあたらしい形式の高床家屋に住みたがっていたからである。結局、Fの死がなんらかの意味で、私たちの建てた家屋に由来する事件だったのか、実のところ今の私にも定かではない。


 住まいがある種の文化的強制力の産物であったことはたしかである。だから戦前の民族誌のなかのボントック族のように、ある民族の構成員がすべからく同一の家屋形式を共有していることはべつに驚くに値しない。外套膜から分泌する炭酸カルシウムを利用して、生長とともに拡大する対数曲線の貝殻をつくりあげる軟体動物のように、あるいは、腹部の出糸腺から吐き出される幾種類もの絹糸を駆使して、複雑な巣作りのプロセスを毎日繰りかえしてみせる蜘蛛のように、人間の住居建設も一定のプログラムにしたがって反復される作業の結果にすぎないのであろう。巻貝や蜘蛛が生まれながらの本能によって、自然の領域でやってのけてきたことを、人間は文化という教育の場を通してでなければおこないえなかっただけの話である。
 トタン葺きの屋根にあこがれるボントック族でおこりつつあることと、住まいの近代化をおしすすめてきた私たちの現在の住居環境とのあいだに本質的な違いはない。それは端的に言って、従来の文化的強制力の解体であり開放であったはずだが、その結果、私たちが住まいにかんしていっそうの自由を獲得したかというとそうでもない。その証拠に、住宅を得るために一生を奉仕せねばならない現在の住文化はあまりにも事大主義の古臭い制度の遺骸にみえる。最新式のスポーツカーを乗り回すように、私たちの住まいも次から次へと変わる流行にあわせて、様々な住様式を手軽に楽しめることが来たるべき都市ノマドの住生活というものだろう。そのときには、建築を通してイデオロギーやユートピアの実現を夢見ていた建築家という存在はとっくに消滅して、デザイナーとかいうずっと洒落た商売がのこるだけだろう。しかし、たとえ世の趨勢がそうであるとしても、そのときに私自身はやっぱりニューモデルの商品住宅ともスポーツカーとも無縁の世界で、貝殻や蜘蛛を相手に自分自身のための巣作りを見つめていたいとおもうのである。

1989.12.05