紀行 スンバ島で家屋を建てる

民博通信 125, pp.29-32 (2009)

私が生まれ育った家はもうない。古里、この言葉はいまも意味をもつだろうか? これまで経てきた歳月の重みをはかり、これからあゆむべき方向をしめしてくれる羅針盤のような場所、いつもかわらずありつづける原点はこの世界のどこかに存在するのだろうか?





2008.10.15

100人をこす村人が柱曳きにあつまった


スンバ島

 2008年10月、雨期の気配はまだ感じられなかった。上空からながめるスンバ島は、起伏をすっかり削りとられた茶褐色の山肌がどこまでもつづいている。潤いのある景観とはおよそ無縁なこの不毛の大地に、身を寄せ合うように集落は点在していた。

 インドネシアのバリ島から島伝いに東にたどった先にスンバ島はある。島は緑の多い西部から東へむかうほど乾燥をつよめてサバンナ気候となる。そのくせ起伏のとぼしい地形は雨期の豪雨とともにたちまち洪水をひきおこした。
 お世辞にも豊かとはいえないこの島で、伝統的な家屋の建設過程を記録におさめようというのが今回の来訪の目的だった。



集落の入口に置かれたカゴの中身はシリピナン、生卵、米

初柱はこのカゴを踏みつけて村にはいる

広場に到着した4本の主柱


記憶

 記憶をたどる。1987年3月、私は2年間におよぶインドネシア滞在の最後の調査地をスンバ島にさだめていた。
 独特のとんがり屋根を載せたスンバ島の家屋は、東南アジアの高床住居のプロトタイプとでも呼ぶべき形式をそなえている。しかも、その建設にあたって高度な技術や道具をいっさいもちいないのである。まるで古代の建築生産さながら、専門職の手を借りることなく、村の共同生活の一部として家づくりを実現していた。

三次元CG 作成協力:須井隆行

 ところが、その建物の調査は容易ではなかった。尖った屋根の屋根裏には祖霊がやどると信じられており、特別な儀礼の機会をのぞいて、屋根裏にのぼることができない。伝統的な祖霊信仰が生きる土地では、この禁忌はなおさら強いだろう。
 私は知人の人類学者のいるその村を訪問してみることにした。
 トラックの荷台に揺られること2時間、この地方をおさめていたラジャ(王)の家に立ち寄り、そこからさらに石ころだらけの荒れ野原を3時間以上も歩く。村に到着したのはそろそろ日も暮れようとする刻限だった。私は一棟の家屋をえらんで実測をおこない、屋根裏にのぼった汚い身体を拭うこともできずに、わずか2日間の調査で逃げるように村を後にした。 フィールドノート1987



太鼓の響きに誘われて、伝統衣装をまとった女性の踊りがはじまる

建設予定の家では儀礼で屠殺したブタの調理

2008.10.17

大工による仕事始め

ダンボールの切れ端を繰形のテンプレートに

儀礼後の食事を柱にもふるまう


 いまは村の入口まで車道がとおり、島の中心ワインガプの町から車でおよそ3時間。それでも私たちは毎日車で往復することにした。村にはまだ電気がなく、ビデオクルーには機材の充電が必要だった。それになにより、水のない村での生活は体力を消耗させたからだ。
 そう、村には水がなかった。数年前に政府の援助で給水タンクが建設されるまで、女たちは毎朝往復2時間以上もかけて水汲み場からわずかばかりの水を運んでいた。以前より便利になったとはいえ、いまも水は飲用にかぎられる。乾ききった大地は日がのぼると耐えられない熱暑となって私たちにおそいかかった。村人たちでさえ、村での生活をなかばあきらめて、耕作地のちかくに、ふだんの生活のための別宅を建設していた。

 いったいなぜそうまでして苦役の源でしかないこの村と家屋をまもってゆく必要があるのだろう?
 小高い丘や山上をえらんで集落をきずくのは、スンバ島のみならず、この地域の一般的な集落の姿である。村同士の戦争が頻発していたためともいわれる。それにしても、困難に耐えて村に住み続ける理由にはならない。ではどうして?
 この問いにこたえることがスンバ島の家屋について理解する近道かもしれない。



2008.10.21

チガヤの採取

2008.10.26

竹の採取


柱曳き

 村のある小高い丘の麓では、100人をこす男女が私の到着を待ちかまえていた。遠方にあるべつの村からこの作業のために駆けつけた者もいる。
 スンバ島の家屋の中心には、4本の柱に載った米倉風の構造がある。祖先神マラプの居場所である。4本の柱は、いわば神の世界と現世をつなぐ架け橋、屋根裏にかくれた祖先神にかわって日々の信仰生活の焦点になっていた。そのため、柱には特別な樹種の木をえらんで利用する。家屋の建設がきまると、村人はこの木をもとめて遠く離れた森へはいる。村までのながい道中を、儀礼歌を囃しながら、ときには数日もかけて柱を曳くのである。

 柱の先端にむすびつけた太い蔓植物の先に20人ほどの男女がつかまって柱をひく。蔓はしばしば切れたから、そのたびに行軍は休止した。村まではわずかの距離をのこすだけだったが、それでも2時間あまりかかって村に到着した。
 柱が村の境界を通過する際には小さな儀式がある。米、檳榔子、生卵をいれた籠を地面において、その上を踏みつけて通るのである。村に婚入することになった娘がそうするのと同様に。こうして、柱は村の成員のひとりとしてはれて村に迎えられるわけだ。
 4本の柱が広場の隅にならべられると、村は一気に祭りの雰囲気に支配された。やすみなく鳴りわたる太鼓の音が伝統舞踏の登場を催促している。待ちきれずに踊り出す若者たち。これだけの数の人間が村に集ったのはいつの日以来だろうか。
 ひとしきり踊りの熱狂がすぎると、建て替える予定の家の屋内では、柱のまえに陣取ったふたりの祭司による儀礼的な掛け合いがはじまる。やがて、供犠の瞬間を待つブタの悲鳴がおかまいなく儀礼の文言をかき消してゆく。

 この一連の儀式は、それから数日にわたってつづく家屋建設の開始をつげる合図だった。
 翌日は休息日でいっさいの作業を禁じられている。そのあくる日、柱に彫刻をほどこす儀式、日本でいう釿始がおこなわれた。4本の主柱にほどこされる彫刻にはそれぞれことなる意味がある。その意味を知り、彫刻に堪能な者が(建設の全体を司る者ではなく)いわば棟梁としてこの儀式にのぞむ。
 その後、屋根裏に安置された祖先神の依代をいったん他の家の屋根裏に移してから家屋の解体、建方、屋根葺きと作業はすすむ。一歩一歩家屋建設のステージを村全体で確認するかのように、あらたな仕事に取りかかるたびにおなじ儀礼のプロセスがくりかえされた。



2008.10.22

マラプをおろす儀礼

マラプを象徴するマムリとカワダックを屋根裏からおろす

儀礼後、マラプの象徴は別の家に移される

2008.10.23

マラプのいなくなった家を解体

婚入する花嫁が村へ足を踏み入れるさいの儀式は主柱の入村とかさなる


ロストワールド

 スンバ島で伝統家屋を建設しようという計画がもちあがったのはこの調査より1年以上も前のことだ。観光ともあまり縁のないこの島で、21世紀のいまも慣習に則った家屋が建設されつづけている。その理由はスンバ島民の信仰生活にあった。
 スンバ島の社会活動の中心には、他の土地ではもはや表だって信仰されることのない祖先崇拝、彼らのいうマラプ教がある。家屋はそうした精神世界を物理空間のなかで体現する場なのである。家屋がなければ、マラプを実感することも、マラプへの信仰を実践することもかなわない。

 村にはこうした家屋が14棟あることになっている。なっている、というのは現実には2棟たりないからで、それらの家は本来再建されるべきだが、事情があって建設されないままに放置されている。建設のための経費がないとか、建ててもそこに住む人間がいないとか、口に出してしまえば身も蓋もない理由である。
 反対に、成員がふえたのでもう1棟新築して15棟になるということもない。そうした目的には村の外に好きな家を建てればよいし、現実にそのような家でふだん暮らしている村人も多い。

 ことによると、家屋や村の目的は人間が住むことにはないのかもしれないとおもう。村人たちは祖霊の住む家屋の床下で遠慮がちに暮らしている。祖先の列につらなるために、つかのまの人生をこの世でおくる間借人として。近代の建築思想で育った身には承伏しがたいことにちがいないが、そうとでもかんがえなければスンバ島の家屋は理解できない。快適とか健康とかいう言葉で私たちが判断しようとしている住宅の価値とはまったく次元の異なるもの、私たちの住宅からは欠落してしまったこと、そこに暮らすことで人生の意味を解決してくれる場を、スンバ島の家屋は日常生活の延長に手の届くかたちで実現していた。
 実在しない2棟のうちの1棟は、村でおこなう儀礼の中心となる建物だった。数年前に倒壊してから、その再建は村人の悲願でもあり、この建物の建設費を捻出するかわりに調査・記録を果たそうというのがわれわれの魂胆だった。



2008.10.24

柱穴に水を注ぎ、生米とシリー、ピナンを置く

正面右手の「占いの柱」からはじめて、夜のあけるまえに右回りに4本の主柱を立てる


建設費

 「建設費」といっても、慣習に則った家屋の建設に明確な値段があるわけではない。村では、建材に使用する竹や屋根に葺く茅を購入せねばならなくなっていた。乾燥した環境が植物の生育を困難にしていたからだ。それでも、材料費は計算ができる。それ以上の問題は、建設にあたって繰り返される儀礼のための費用にあった。
 村人にとって最大の関心事は、どれだけの回数の儀式をおこない、そのためにどんな種類の、どの程度の大きさの動物を供犠するかにあった。儀式の盛大さは招待客の数を左右する。それはとりもなおさず建設される家の格を規定した。

 あるいは、私は社会というものを単純に語りすぎたかもしれない。村の儀礼の中心家屋がなぜいつまでも放置されたままできたかといえば、いまさらそんな建物を再建してどうなるとかんがえるリアリストがいっぽうにいたからである。家屋の建設を村の慣習の一部とみる者もいれば、労賃もなく只働きするのはご免だという者もいた。偽らざる現実だ。
 儀礼の中心建物を建てるためには、それに先行して村の集会場となる家屋を再建しておかねばならなかった。取材に先立つ3月には、その建設まで準備作業はすすんでいた。
 それにもかかわらず、われわれの当初の目論見は頓挫してしまった。儀礼の中心建物にもとめられる儀式や周辺社会もまきこんだもろもろの手続きをこなすだけの時間的余裕がなかったためである。計画は村人自身の手にゆだねられて現在もすすんでいる。
 そのかわり、われわれの計画が撒いた種はべつのかたちで実を結ぶことになった。

 村にのこる家屋はどれも疲弊していた。茅葺きの屋根も補修されずに朽ちるにまかされていた。いたんだ屋根を葺きなおそうにも、共同作業に人びとを駆り立てる情熱が村にはうしなわれていたのだ。希望や夢の不在。情熱は、かりにそれがあったとしても、村のためではなく、村の外にある自身の家をどれだけ立派にするかにむけられていた。
 われわれの仕掛けたほんのささいなきっかけが村人の情熱に火をともしたのである。



2008.10.25

2008.10.26

2008.11. 5


家の魂

 家屋が表向き完成してからすでに1週間以上が経過していた。村の半数ちかい建物の屋根があたらしく葺かれ、ひさしぶりに訪れた村はつかのまの活気を取りもどしていた。建物が完成し、住人が住みはじめても、家屋にはまだ肝心なものが欠けていた。家の魂、マラプがもどってきていなかったのだ。
 別の家の屋根裏に仮住まいしていたマラプをふたたびむかえるまえに、屋根の棟を覆う作業がおこなわれた。それまで、マラプのいる屋根裏はまだふさがれていなかった。ふたりの男が屋根にのぼり、2時間あまりもかけて丁寧に棟を仕上げた。
 日没を待って、マラプの依代である品々が新築なった家に運ばれる。それにつづくマラプへの儀礼と共食は夜ふけまでおよんだ。

 住宅は住むための機械――近代建築の夜明けを告げる有名なマニフェストである。私たちがマイホームを自分の好きなように所有し、周囲の環境を変化させていける背景には、すべてこうした人間中心主義がある。この壮大な歴史の実験もたかだか100年たらず。スンバ島の家屋や村が再建のたびに繰り返しおなじ景観をつたえてゆく不思議を目の当たりにするなら、この100年のあいだに私たちが何を得、何をうしなったのかを検証するときがきているようにおもう。



2008.11. 6



注)本調査は2008年10月13日~11月8日の期間、つぎの各氏の協力のもとにおこなわれた。
桃山学院大学・小池誠、竹中大工道具館・西山マルセーロ、エスパ・井ノ本清和、岡部望の各氏。