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建築人類学とは何か?
日本経済新聞 1998.9.26(土)夕刊
rengao
ベトナム中部高地のレンガオ族の建設中の共同家屋

 民家の魅力は、自然と人間が渾然一体となってつくりだす調和にみちたコスモスにある。そのなかで人間のいとなみは、あたかも巣作りにはげむ昆虫や小動物のそれのように、自然の一部と化して見えるのである。わざわざ海外まで調査に出かけるようになったきっかけは、そうした民家を生きた状態のまま見たいという好奇心にあった。日本では民家を支えてきた伝統的な生活基盤はすでに過去のものとなり、民家は観光資源や文化財としてかろうじて残されているにすぎない。けれども、近代化のおよんでいない海外のフィールドに行けば、いまだに伝統的な社会生活のなかから生みだされる生身の民家が見られるにちがいない。無邪気にもそう期待したのだ。

 しかし、この目論見はみごとにはずれた。どんなに辺鄙な土地に行っても、住民たちは時代遅れの家屋をきらって、トタンやセメントを利用した耐久性が高く文化的な家屋に住みたがっていた。私はと言えば、伝統的な民家がいかに大切な彼ら自身の文化財であり、技術大国の日本がいかに伝統的生活を大切にする社会であるかを、住民相手に説教しているありさまだった。

 書店にならぶ建築関係の刊行物をぱらぱらとめくっていると、不思議なことに気がつく。誌面をかざる写真にはほとんど人間が写っていないのだ。人間は建築作品を鑑賞するうえで邪魔になるから、たいていは撮影のさいに注意深く排除されてしまう。住宅とて例外ではない。乱雑に散らかる室内や満艦飾の洗濯物が生活の息吹をつたえることはありえない。つまり、建築のよさは、作者の意図がもっともよく発揮された完成直後にあり、時間がたって人間活動の痕跡が刻まれるほど、その価値はうしなわれてゆく。そうこれらの刊行物は主張しているわけだ。

 私たちはひたすら人間を無視して建築をつくりつづけてきたのである。そして、そうした環境から生みだされる人間が、どこか人間性を欠如させたものになりつつあるのではないかとおそれはじめている。

 建築がいかにあるべきかなどということは、じつは個人の生活にとってみればどうでもよいことである。建築とかかわりながら生きることの意味はただひとつしかない。それは、人間らしく生きているという実感を得られるか否かにつきる。住まいを手に入れ、そこで生活することを通して、人生を存在感のあるものに変えられるかどうかは、私たちひとりひとりが考えてゆかねばならない問題なのだ。

 住まいは、複数の人びとの手を経ながら、地域をこえ世代をこえて伝えられてきた。建築人類学という学問は、住まいを通して、それをになう社会や人間の本質にせまることをもくろんでいる。なぜなら、住まいによって実現すべき思想もなく、生活の実態さえも見うしないがちな私たち現代人に必要なのは、建築の背後にあって、それを支えてきた文化という名の巨大な構築物の存在を知り、そこに織りこまれてきた人間と住まいの関係をもう一度確認することだからである。