沖縄のビール缶屋敷カンカラヤー Beer Can House in Okinawa

空き缶ハウス
「沖縄の空き缶ハウス」
『新製品民俗学』1(2006.9), pp.92-95 より一部抜粋修正

 ブリキのコラージュならぬ空き缶の家である。いや、正確に言うと、これは空き缶でできた家ではない。木造平屋建てに波板の屋根という、沖縄では別にめずらしくもなんともないローコスト住宅。しかも、そこで平穏な家庭生活をスタートさせた家主には、空き缶で家を覆い尽くすなどという大それた野心はつゆほどもなかった。一日の仕事を終えてひとり飲むビールが何よりも好き。つい飲みすごしたあとの空き缶の山を見やって仄かな悔恨にくれる。そんな情景が目に浮かんでしまうほど、あたりまえすぎる舞台装置なのだ。空き缶の家のオーナーになる可能性は誰にもひとしくある。だからこそおもしろいのである。

Beer Can House in Okinawa
Beer Can House in Okinawa 1986-2007

 那覇市の近郊、小高い丘の中腹にその家はある。道路に面した塀の表面をびっしりと覆うアルミの缶底。沖縄の伝統建築を模した門構えにも空き缶は容赦なくおそいかかる。この強迫観念から免れているのは、門をまもるシーサーだけ。缶底は植木鉢も見逃さない。さらに、庭に掘られた池の縁をうねるように駆け上がり、アルミサッシュの枠だけをのこして建物の外壁をなめつくす。その勢いのまま、和風の室内になだれこむのである。

新聞記事
1986年12月18日(木)琉球新報~室内の飾り

 「空き缶で断熱効果」1986年12月18日の琉球新報は、空き缶の家の誕生をそう紹介している。ぴかぴかの屋根の造形美をつくることに要したビール缶は2600個、6ヶ月かかったとある。トタン葺きの屋根が暑くて、雨の音がうるさいため、ある日、思い立ってビールの空き缶を波板のあいだに敷き詰めてみた。それが新聞にも取り上げられて評判になった。断熱効果のほどはさだかではないが、この記事ではずみがついたことはまちがいない。
 家主の盛栄は左官職人だった。仕事を終えて帰宅すると好きなビールを飲んで寝る。10時頃に起き出すと、月明かりの下で空き缶の底を切り抜き、モルタルで壁に固定する毎日がはじまった。
 家はミクロコスモス(小宇宙)と言われることがある。世界はどのような成り立ちをしているのか、そのなかで人間とはどのような生き物であるのか、そして、私という存在はこの世界にどう位置づけられ、どう生きてゆくべきなのか、かつて家屋は世界の構造を理解するための雛形だった。いま私たちが商品として購入する住宅には、閉じた家族のための空間があるばかりだ。そのような住宅は、そこに住む者を知らず知らずのうちに不安の底につきおとしているのではないかとおもう。
 身の回りの空間をことごとく空き缶で覆い尽くすことで、盛栄は彼なりの仕方で世界を認識するすべを手にいれたのにちがいない。空間恐怖症の患者がひたすら同一モチーフを繰り返して空間を埋め尽くそうとするように、ほんの小さな思いつきではじめた缶底貼りの作業が現代人のかかえる不安の根源に蓋をした。もし、盛栄にもうすこし余分に人生の時間があたえられていたなら、世界の余白は残らず缶底でふさがれてしまったことだろう。ぎょろりと目玉をむいて缶底のならぶ塀をまえにしたときに感じる尋常ならざる気配。その正体はこの空き缶の家が放散する世界制覇の野望にあるのかもしれない。 (20060711/20080108)

Beer Can House in Okinawa
Beer Can House in Okinawa 1986-2007

 私が浦添(いまなら書ける)にある空き缶ハウスを訪れたのは2004年の8月、ちょうどブリコラージュをテーマとした特別展の準備のために近くの障害者施設を訪問したときのことだった。通りかかった道沿いに偶然異様な住宅をみつけた。沖縄の空き缶ハウス! 写真では知っていたが、まさかここで出会えるとは思っていなかった。本来の仕事もそっちのけで写真を撮った。それだけでは諦めきれずに翌日もかよった。その日は意を決してずかずか家の中まではいりこみ、住人に突然の訪問をわびて、撮影の許可を願い出た。

新聞記事
トタン屋根だったんだけど、雨音がバラバラと騒がしくて、テレビが聞こえない。それで、缶を張れないかと発想したわけよ。。。。自分で飲んだ分だけじゃなく、仕事先の棟上げの時にもらったりしたのもある。そのうち、知らない人が家の前に空き缶を置いてくようになった。。。。雨の降り始めは楽しみよー。大粒の雨が落ちて、木琴のようにキンコンカンコン鳴るわけさー。そのうち雨音が消えて、テレビも大丈夫、聞こえるさー。。。。だから、やめられなくなってしまったさー。でも、人のやってないことをやってるのは誇り。だから十年かかっても、二十年かかっても完成するまで頑張るさー(MYHOME EXPRESS掲載の城間盛栄氏インタビューより)

 空き缶ハウスの主人、城間盛栄は3年前に62歳でなくなっていた。家には55歳になる妻の洋子と長女が暮らしていた。夫婦はともに首里の出身で、この土地には夫の兄弟3人がともにおなじ規格の3軒の家をつらねて移り住んでいた。もちろん、当初は空き缶とは縁もゆかりもない波板葺きの家である。だからこの空き缶ハウスの原型がどうだったかを知りたければ、隣りの家を見ればよい。
 いったいどこで覚えたのだろう。波板の曲面に空き缶はぴったりとおさまるのである。これをコールタールで固定する。空き缶で屋根を覆った家の記事が新聞に載り「カンカラヤー(缶空屋)」として評判になると、オリオンビール本社からも人が見学に来たという。さすがに私が訪問した時には、屋根にのこる空き缶はみな白く腐食していた。
 しかし、空き缶ハウスの本領が発揮されるのは、屋根に載せた空き缶ではなく、缶底を切り抜いて壁面に貼り付けるようになってからだ。左官の腕をふるって、といってしまえばそれまでだが、全国にごまんといるにちがいないビール好きの左官職人が誰ひとり夢想だにしなかった行動である。いったいどんな思いで最初の缶を貼り付けたのかをひそかに想像する。家族は彼の行動になんと言ったのだろう。
 やがて「カンカラヤー」は子供たちのあいだで「宇宙人の家」として人気を博すようになる。多いときは日に50~60人も見物に訪れたそうである。それもあって毎日の空き缶張りは盛栄の生き甲斐になった。妻の洋子は夫が死ぬまで缶底を切り取る作業を手伝っていたという。そう夫の思い出を語りながら、彼女はものの30秒ほどで空き缶を切ってみせてくれた。

 2006年に私はこの家について短い紹介文を書いた。写真掲載の許可をとろうと電話をしたら、私の訪れた翌年に洋子は病死してすでにこの世になかった。愕然とした。つたない原稿の載った雑誌を私は長女にあてて送った。
 沖縄の空き缶ハウスがなくなったと人づてに聞いたのはさらにその翌年、2007年6月のことだった。道路の拡幅工事のせいで空き缶ハウスのあった場所一帯がその年の春に立ち退きにあった。あわててネットを検索してそこまで確認した。すべてはまぼろし???雨月物語の一節がふと頭をよぎった。言葉もない。

 さりともと思う心にはかられて世にもけふまで生ける命か(「浅茅が宿」)

撮影した写真と記事の一部をこうして公開するのはそのような理由による。(20080108 記)