災害インタビュー 2007  fieldrecord 2007.3.7 -2007.3.26
3月11日(日)グヌン・シトリ

Tan San Ho
1960年生 中国商店経営
妻 同年生 女1、男2の子供あり

地震当時は3階建てのRC建物に妻とふたり。建物は倒壊、現在は2階建てのRC建物を自力で建設中。地震で右腕を負傷、最初の被災者救出ヘリコプターでメダンの病院にはこばれるが、腕を切断せねばならないと言われて、私費でペナンの病院へ行き手術。3ヶ月後にニアスへ戻る。

運は商売のときに使う言葉、これはまだ生きていてよいという神さまの思し召し。災害はいつくるかわからない。いまは夜寝るときに、扉の鍵と現金を枕元におくことを忘れない。

 その夜は食事のあと、しばらく妻と外出して、だいたい夜10時すぎに帰宅、テレビを見たあと床につきました。10分から15分ほど寝たでしょうか、建物が、大地が揺れはじめ、ゆっくりと、それからすごい勢いで揺れ、私は妻にむかって、おい地震だからすぐ外に出ろと叫んだのです。私たちは2階の正面の部屋に寝ていたので、外に出るドアがありました。私はそのドアをあけようと、半分ほどあけたところで、そんな気がしたんですが、電気は消えていて、停電だったのか、真っ暗で、私の感覚では、誰かが家のなかから私を押している気がしたんです。だけど誰だかわからない。私は空を飛んだような気がして、まるで建物から外に投げ出されたような感覚で、でも、まだ大地はこんなふうに揺れていると感じて、その後、気を失ってしまいました。私は覚醒しているのか、そうでないのか、もう死んだのか、それともまだ生きているのか、人事不省の状態で、でも喉が渇いて、熱いという感覚はあって、それから少しずつ、妻が叫んでいるのが聞こえてきました。彼女は家の中から私の名前を呼んでいたのです。彼女はまだ扉の向こうにいました。私は半分しか扉をあけていなかったので取り残されたのでしょう。私は扉から外に投げ出され、彼女はまだ後ろにいたのです。私は、2階の扉から飛び降りたような感覚で、大地はまだこんなふうに揺れて、そう、まるでモーターボートに乗って、まだ波を受けているような感覚でした。真っ暗で。それから、私は立ちあがろうとしましたが、それができませんでした。私は動けなくて、私の手は動かなくなっていて、動かそうとしても動かないので、もう死んだのかと思いましたが、熱くて、喉がかわいて、水が飲みたくて、妻が家の中から叫んでいるのが聞こえて。それで、何度か立ちあがろうとしていると、妻が助けを求めて叫んでいました。もう揺れはおさまっていましたが、真っ暗で、建物がどうなったのかもわからなくて、ただ私にわかったのは、自分の腕が動かないことと、妻が家の中から何度も叫んでいることだけでした。私はようやく立ちあがり、彼女の声がどこから聞こえているのかを確かめようと、妻の名前を何度も呼んで。彼女の居場所がわかったので、手を出しなさいと言い、お互いに手を差し伸べて、扉の前後で手を取り合うことができたのです。
 どうだと聞くと、何ともないけれど、ただこの扉が私の体を押さえつけているようだと言います。たぶん彼女は家の梁の下にいたのでしょう。なぜなら、扉はすでに前に倒れていて、彼女はその後ろで、幸いにして落ちてきた梁の直撃をまぬがれていたのでした。妻はこの扉をどけてくれるように言い、扉は私でもどけることができたのですが、蹴とばしてどけると、さらに大きな板があって、この板をこの手で折ってどうにか彼女の手をつかみ、彼女はやっと動くことが、そう、ドアの下から脱出することができるようになったのです。怪我をしていたかどうかはどうでもよいことです。ともかく、その穴から外へ出ることができたのです。ふたりとも手をとりあって外に出ると、すぐにそこはアスファルトの道路でした。(まだ続く)




崩れた建物は鉄筋がこんな太さしかなく

津波をおそれて山に逃げる

運ばれた病院では腕を切断すると言われて

仮住まい

新店舗は2階建て



3月12日(月)テルク・ダラム

Romario
1970年生  食堂経営
夫と子供2人の4人ぐらし

食堂の建物は築40年もたつ木造ぼろ屋、すぐ後ろは海という津波被害には絶好のロケーションだが、津波も地震も乗り越えて現在も住み続ける。災害後1ヶ月半はボランティアで毎日この店で炊き出しをしていた。BRRの援助で36タイプの家を提供してもらったが、こわくてあんな家には住めない。セメントを少ししか使っていないから。


ここでは中国人に注意を払ってくれる人はいないわよ。自分の面倒は自分でみないといけないの。

 私はパニックになって、ほら地震よ、地震よって。子どもたちを起こして地震だから下に降りなさいと。だけど揺れがひどくて、階段の途中まで降りたところでさらに強い揺れがきて、その時は、子どもたちをせかしながら私が先に駆け降りたところで、子どもたちはまだ階段の上にいたのよ。ちょうどこの12月に津波があったばかりで、ここも波が床上60~70センチ上まで達して、そのせいで冷蔵庫を階段のそばまで引き上げたまま、まだ下に降ろしていなかったのね。家のなかはランプもなく真っ暗闇。階段から降りることができなくて、そのままずっとこんなふうに酔っぱいのようにぐるぐる揺れて、地震は下へ上へと揺れ通しで、そのせいで家は全部崩れだして、同時に大きな音、声みたいな風の音みたいな、きっと家が揺らいでいるせいでする、うーうーうーという風みたいな音がとどろいて。家のなかは全部こわれて、ぐちゃぐちゃで、もうわけがわからない混乱状態。私の家はつぶれなかったけど、この家は古くてもう築後40年もたつのに幸い神さまのご加護があって、、だけど私は、、、ああ神さまありがとうございます、、、どんなに揺れがひどくても、私は目前にあった冷蔵庫で潰されずにすんだの。木の階段はセメントに固定してあったのだけど、それがはずれて4人とも宙づりになってしまって、階段の上を固定していた2本の釘だけで私たちは支えられた格好で、そのままずるずるとずりおちるようにして下まで降りたの。そこで神さまはふたたび私たちにランプのご加護をあたえてくれたわ。ちょうど蓄電池の電灯があっちの先に点灯して、その光が運良く私の足元までとどいたの。そのおかげで、階段がもう終わったかどうかわからない手探り状態だったので、うまく足をはこぶことができたの。そのときはもうひどい揺れはおさまっていて、電気をつけて店に出てみたら、もう全部が壊れていて、テレビはあそこのはじからここまでとんでいたくらい。ともかく、ドアは全部はずれて、全部落ちていたのよ。
 だけど私たちはまだあわてていて、津波のことを思い出したからね。私はジャケットさえ着ていなかったのよ。まるで手ぶらの状態。それで、隣りの建物に住むお手伝いさんの家に、、そしたら、彼女はまだそこから出てくることができないで、タンスが倒れて中に閉じこめられていたの。助けてと言うんだけど向こうから鍵がかかっていて、幸い叔父が外に出ることができて。叔父はくずれた煉瓦の壁で片足の骨を折っていたけれど。それで私はほかの人を助けに行ったの。向かいの家でも助けをもとめる人がいて、私の店にはランプがあったから、その光で見えるように。助け声は聞こえても何も見えなかったから。彼らは建物の2階にいて、姿が見えなかったのね。それで、なんとかランプをつけることはできたけれど誰も手助けしてくれなくて。みんな走って逃げることで精一杯。私は津波の心配をするより、すぐに海水が上がってくるとは思っていなかったから、それより、地震があったら、建物の下敷きにならないように、すぐに広い場所に行くことだけを考えていた。私は子どもたちをうながして外に出たの。町の人たちはみな我先に走って逃げようとしていた。私はまだほかの人を助けていたのに。みんなで外に出てから、子どもを連れて走ろうとしたら、まだ家の中に閉じこめられている人がいて、そこのコンクリートの家ね。アドゥ、私はランプの光を差し出してあげて、それで彼らはようやく懐中電灯を見つけ出して。懐中電灯は彼らの店の商品だったからよ。それで懐中電灯をつけて外に出てきたの。
 そのとき、海水が上がってきたという声がして、本当に海水がきたのよ。私たちはちょうどその先の橋をわたったところで、もう橋の上まで波は襲いかかっていた。すぐに子どもの手を引いて走りだしたわよ。何度も手がはなれるほど引っ張って山に向かったの。みんなサンダルを履かずに裸足で走ったわ。サンダルを履いていたらとても走れないので途中で脱ぎ捨てて。しばらく行ってから、子どもたちは私がふたりとも抱っこして。みんなひたすら山をめざして走ったのよ。やっと山まで着いたところでまた強い地震があって、その夜は一晩中地震が続いていた。そのうえ雨。家がどうなったかなんてまったく考えなかったわ。
 私は滅亡の日(kiamat)だと思っていた。夫にもそう話した。ほかのことは何も考えずに、これはたぶんこの世の終わりなんだと。神の怒りに触れたのだと。私たちは走って山にのぼることしかできなかった。サンダルもなく、寝間着のまま、海水でずぶ濡れになりながら。(まだまだ続く)


築後40年もたつのに幸い神さまのご加護があって

子どもたちを起こして地震だから下に降りなさいと

木の階段はセメントに固定してあったのだけど、それがはずれて4人とも宙づりになってしまって

12月に津波があったばかりで、ここも波が床上60~70センチ上まで達して


電気をつけて店に出てみたら、もう全部が壊れていて、ドアは全部はずれて、全部落ちていたのよ

みんなひたすら山をめざして走ったのよ

ちょうどその先の橋をわたったところで、もう橋の上まで波は襲いかかっていた




3月14日(水)ヒリシメタノ

Enurti Zagoto
1990年生(現在17歳)公立高校生(地震時中学生)
父(現在44歳)、母(37)、弟(15)、祖母(70?)、従姉妹(19)の6人が伝統家屋に住んでいた

住んでいた木造の伝統家屋は棟が傾き、危険と判断した家主の手で解体。地震のさいは建物の屋根裏に子供たちの部屋があった。現在集落内の建物は解体した材料を敷地にのこしたまま、おなじ場所に仮小屋をきずいて住む。集落外に36タイプの復興住宅を建設中。


どんな災害があっても、私たちは勉強をすることをおろそかにしてはいけないとおもいます。高校を卒業したら医学の道に進みたい。島には医学部のある大学がないので、両親がゆるしてくれたら、医者になって、島にもどって島の人びとの役にたつ仕事がしたいです。

 11時頃に床につきました。私の家族は寝る前にみなでお祈りをする習慣なので、お祈りのあとでみな自分の部屋にもどります。枕に頭をのせて寝ようとしたちょうどその時、なんとなく揺れるような気がしました。だけど、その時はほとんど感じ取れないくらいの揺れで、地震という感じではなかったです。それから5分くらいして、私も従姉妹も起きて、彼女が言うには、私たちは下に降りた方がよい、これはきっと地震よ。私は起きて、彼女は祖母を起こしにむかいました。年寄りはまだ起きだす時間ではないから。私が屋根裏部屋から降りようとした時には、揺れはすでに大きくなっていました。母は先に建物の外に出ていましたが、父は叔父の家に出かけて不在でした。建物の床はずいぶん高いので、私は正面のドアから出ることを諦め、そのとき、揺れはいっそうひどくなって、あわてて裏の台所へ通ずる階段から下へ降りました。だけど家の裏側はもう地震のために壊れていて、出口の扉があかず、私はそこに閉じこめられてしまい泣きました。母は私の叫びを聞いて戻ってきてくれて、台所へ通じる扉を蹴破ってくれました。それで、私はようやく外に出ることができました。台所から私が抜け出したちょうどそのとき、なにかが頭上から落ちてきて、あやうく命拾いしました。あとでそれは屋根の妻壁の板であることがわかりました。それから5分くらいたったでしょうか、地震の揺れは15分くらい続きましたが、弟を見にいった母が戻ってきて、ちょうど父も叔父の家から戻ってきたところで、父と母は家のなかに向かいました。私も外に残るのがこわくて、一緒についていきました。やっと父の力で扉をこわして、祖母、弟、従姉妹の3人を外に助け出すことができたのです。本当は、建物の表側はこわれていなかったのですが、棟が傾いていて、さらに大きな地震があったらあぶないというので、父は自分の手で建物を解体しました。(まだ続く)